【古写真の調査後売却】有栖川宮熾仁親王・北白川宮能久親王・伏見宮貞愛親王(鶏卵紙、手札名刺サイズ)

【有栖川宮・北白川宮・伏見宮】

◆有栖川宮 熾仁親王
江戸時代後期~明治時代の日本の皇族、政治家、軍人。号は初め「泰山」、後に「霞堂」。階級・勲等・功級は陸軍大将大勲位功二級。有栖川宮幟仁親王の第1王子で、幼名は歓宮(よしのみや)。生母は家女房の佐伯祐子。官職は任命順に、大宰帥、国事御用掛、政府総裁、東征大総督、兵部卿、福岡藩知事(のちに県知事、県令)、元老院議官(後に議長)、鹿児島県逆徒征討総督、左大臣、陸軍参謀本部長、参謀総長、神宮祭主。和宮親子内親王と婚約していたことで知られる。だが和宮との婚約は徳川幕府の権力失墜に伴い公武合体を余儀なくされた幕府が公武合体を国内外に誇示するための実績として和宮は降嫁し、徳川将軍第14代徳川家茂と結婚した。旧水戸藩主・徳川斉昭の娘で徳川慶喜の妹の徳川貞子を、明治維新後に最初の妃として迎える。貞子は婚儀の2年後、熾仁親王の福岡赴任中に23歳で病没。明治6年(1873年)7月に旧越後新発田藩主・溝口直溥の七女・董子と再婚した。明治維新後は陸軍軍人として明治天皇を支え、王政復古による天皇中心の明治政府樹立において、政務を統括する最高官職である三職の総裁を務めた。明治28年(1895年)に61歳で薨去。有栖川宮は跡を継いだ異母弟の有栖川宮威仁親王の代で断絶した。

◆北白川宮能久親王
日本の皇族。陸軍軍人。幼名は満宮(みつのみや)。最後の輪王寺宮(りんのうじのみや)として知られる。伏見宮邦家親王の第9王子。生母は堀内信子。幕末に活躍した山階宮晃親王と久邇宮朝彦親王の弟で、仁孝天皇の猶子にもなっているため、孝明天皇の義弟、明治天皇の義理の叔父に当たる。嘉永元年(1848年)8月3日、1歳で青蓮院宮の附弟となり亡き仁孝天皇の猶子とされ、嘉永5年(1852年)に梶井門跡の附弟となる。安政5年(1858年)10月22日に親王宣下を受け能久の諱を与えられ、翌月の11月23日には輪王寺宮慈性入道親王(有栖川宮幟仁親王の弟)の附弟となり、兄の青蓮院宮尊融入道親王(後の久邇宮朝彦親王)を戒師として得度し、公現(こうげん)の法諱を称する。慶応3年(1867年)5月、江戸に下って上野の寛永寺に入り、同月の慈性入道親王の隠退に伴って、寛永寺貫主・日光輪王寺門跡を継承した。院号は「鎮護王院宮」、歴代門主と同じく「輪王寺宮」と通称された。慈性入道親王は天台座主であったが、座主職は梶井門跡の昌仁入道親王が再継承している。慶応4年(明治元年、1868年)1月に戊辰戦争が始まり鳥羽・伏見の戦いの後、輪王寺宮は前将軍徳川慶喜の依頼を受けて2月21日に出発、3月7日に東征大総督・有栖川宮熾仁親王を駿府城に訪ね、新政府に慶喜の助命と東征中止の嘆願を行う。しかし、助命については条件を示されたものの東征中止は一蹴されたため6日後の13日に寛永寺へ戻った。父や熾仁親王からは京都へ帰還を勧められるも拒絶した。彰義隊が寛永寺に立て篭もった後の5月4日には熾仁親王が江戸城に招いているが、この使いには病であると称して会わなかった。5月15日に上野戦争が発生したが、彰義隊の敗北により寛永寺を脱出、25日に羽田沖に停泊していた榎本武揚率いる幕府海軍の手引きで長鯨丸へ乗り込み東北に逃避、平潟に到着した。東北では輪王寺宮執当覚王院義観ら側近とともに会津、米沢を経て仙台藩に身を寄せ、7月12日に白石城へ入り奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された。輪王寺宮自身も「会稽の恥辱を雪ぎ、速に仏敵朝敵退治せんと欲す」と述べるなど、新政府軍に対して強い反感を持っていた。奥羽越列藩同盟側は輪王寺宮に対し、軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請した。しかし輪王寺宮は「君側の奸」を除くことには同意し、政治面での盟主にはなるが、出家の身であるために軍事面では指導できないとした。結局6月16日に盟主のみの就任に決着、7月12日には白石城に入り列藩会議に出席した。以後降伏まで白石城と天台宗仙岳院を行き来していた。

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◆伏見宮貞愛親王
日本の皇族、陸軍軍人、帝国軍人後援会総裁(初代)。官位は元帥陸軍大将大勲位功二級内大臣。伏見宮邦家親王第14王子。母は鷹司政煕の女鷹司景子。伏見宮第22代および第24代。幼名は敦宮。親王は初め妙法院を相続したのち孝明天皇の養子となるが、伏見宮貞教親王薨去のため、1862年(文久2年)旧暦11月に還俗し家督を継ぐ。1864年(元治元年)いったん伏見宮を離れ家督を父宮の邦家親王に渡す。そして1872年(明治5年)再度伏見宮を継承し第24代となる。親王は皇族として唯一、大正初期に4代目の内大臣を務め、軍人として最高位の元帥陸軍大将に就任したほか、大日本農会・大日本蚕糸会・在郷軍人会・理化学研究所・恩賜財団済生会・大日本武徳会等の総裁を歴任する。なお、済生会の総裁職はのちに寬仁親王が就任する。親王は馬術・囲碁・音楽・弓術・撞球・書道・書画刀剣・木石花卉などを趣味とし、銚子犬吠埼の別邸・瑞鶴荘には矢場・撞球場が設けられた(『貞愛親王逸話』)。親王は福岡県宗像市の宗像大社を厚く崇敬し、記紀にある神勅の言葉を揮毫している。