【古写真の調査後売却】東京・銀座通り

東京・銀座通り

◆銀座通り
銀座(ぎんざ)は、東京都中央区の地名で、旧:京橋区の地域にある。現行行政地名は銀座一丁目から銀座八丁目。郵便番号は104-0061。地域ブランドとしても知られている。日本有数の繁華街であり広義における下町でもある。東京を代表する高級商店街として、日本国外においても戦前よりフジヤマ、ゲイシャ、ミキモト、赤坂などとともに知られる。「銀座」の名は一種のブランドになっており全国各地の商店街には「○○銀座」と呼ばれる所がそこかしこに見受けられる。銀座の地名の由来は、江戸時代に設立された銀貨幣の鋳造所(銀座)にある。駿府(静岡市)に置かれていた幕府の銀座が、1612年(慶長17年)に江戸に移されて以来、これが地名として定着した。また、銀座四丁目交差点付近は商業地として日本一地価の高い場所としても知られている。江戸時代以前、現在の丸の内から日比谷にかけては日比谷入江と呼ばれ海になっており、その東には隅田川の運んできた砂によって江戸前島という砂州が形成されていた。その先端が現在の銀座に当たる。

江戸前島は銀座付近にあった半島。中央通り付近を尾根筋とし、汐留付近を先端としていた。江戸時代初めの日比谷入江の埋め立てにより、日本橋台地と呼ばれる微高地になっている。
1600年、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利し、1603年に江戸幕府を樹立すると、第一回目の天下普請が行われ、日比谷入江の埋め立てと京橋地区の整備が進められた。1604年には東海道が整備されたが、銀座の都市基盤の整備は1612年の第二回目の天下普請まで待つことになる。整備は、京間10間とした東海道(銀座通り)を中心にグリッド状に設計され、それぞれの街区の中央には会所地が設けられた。町割りは金座御金改役で家康の側近でもあった後藤庄三郎を中心に行われた。

町人地として整備が行われた銀座には、1612年に駿府にあった銀座役所(現在の静岡市葵区両替町一丁目)が移転し、銀貨の鋳造が行われた。当時、通町京橋より南一丁目~四丁目までを拝領して新両替町と称し銀座人らが住居を構え、新両替町二丁目東側南角に常是役所、この北隣に銀座役所が設けられた。常是役所は現在の第一三共ビル付近、銀座役所は現在のティファニー銀座ビルの位置に相当する。ビルの前には「銀座発祥の地」の石碑がある。1715年には大判座の後藤屋敷が一丁目に移転してきた。これらの場所は現在の銀座一丁目から四丁目に当たる。銀を特権的に扱う銀座は相当な利益があり、銀座役人の不正事件が多発したことから、銀座そのものは1800年に蛎殻町(現在の日本橋人形町一丁目付近)に移転させられるが、呼び名としての銀座は当地の通称としてそのまま残った。

現在の五丁目~八丁目は、尾張町、竹川町、出雲町と呼ばれていた。現在の銀座七丁目付近には朱座が設けられた。また、徳川家康に親しまれ、幕府の式楽となった能の四座のうち三座も銀座に置かれた。このほかにも、槍や鍋といったものを供給する職人たちが多く居を構えた。

1657年、明暦の大火により江戸は大半を焼失し、銀座も大きな被害を出した。これを機に江戸の大規模な都市改造が試みられ、銀座でも三十間堀川沿いの河岸の増設や、道路の新設による街区再編などが行われた。

江戸時代の銀座は、御用達町人地として発展したものの「職人の町」としての側面が強かった。江戸研究家の三田村鳶魚も、京橋や日本橋よりも街の賑わいは劣っていたと、自著『銀座』内で語っている。

銀座に転機が訪れたのは、明治維新後の1869年と1872年に起こった2度の大火だった。特に、1872年の銀座大火は和田倉門内の兵部省添屋敷から出火し、銀座一円が焼失するという大規模なものであった。そこで、東京府知事・由利公正の主導により、大規模な区画整理と、トーマス・ウォートルス設計によるジョージアン様式の銀座煉瓦街の建設が行われた。この政策は、火事の多かった東京を不燃都市化すること、また同年秋に開業予定だった横浜~東京間を結ぶ鉄道の終点・新橋駅と、当時の東日本経済の中心地であった日本橋の間に位置する銀座を文明開化の象徴的な街にしたい、との思惑があったとされる。ロンドンのリージェント・ストリートに倣って、街路樹(当初は松・桜・もみじ)やガス燈、アーケードなどが造られた。煉瓦街はまず1873年、銀座通り沿いに完成し、1877年に全街区の建設が完了した。

しかし、その一方で、住民たちは自らの住所に帰ることができなかった。煉瓦街の整理後も煉瓦家屋の払下げ価格が高価なうえに支払い条件が厳しく、多くの住民たちは銀座を後にせざるを得なかった。かわりに、他の地区で成功を収め、煉瓦街に進出してきた商人たちが銀座の表通りで商売を始めた。現在、「銀座の老舗」とされている店の多くは、それ以降に進出してきた店である。
こうして新しく出発した銀座には2つの特色があった。まず、実用品の小売を中心とした町であったこと。そして、京橋区という下町にありながら、顧客は主に山の手(番町、市谷、赤坂、麻布など)に住む華族や財閥といった特権階級(上流階級)や、中産階級、ホワイトカラーの人々だったということである。当時の下町の人々の盛り場は、古くから栄えた浅草・上野だった。一方、明治維新後に東京へ出てきた人々は、同じく明治に入って急速な発展を遂げた銀座に集うようになり、こうした地方出身者と中産階級の増加に伴って、銀座も発展をしていった。1923年9月1日に発生した関東大震災で銀座は町の大半を焼失し、壊滅的な被害を受けた。国の援助を受けて東京市は大規模な帝都復興計画を実施し、都市機能の拡充を行った。銀座でも、煉瓦家屋のほとんどの取り壊し、昭和通りの整備、晴海通りや外堀通りの拡幅が行われたものの、街区の整備に手をつけられることはなく、1872年の区画整理時の町並みが残された。

なお戸越の商店街は震災後の排水処理に困っていたため、銀座から撤去されたレンガを貰い受けて排水処理に利用した。この由来から『戸越銀座』と名乗るようになって、全国初の「○○銀座」となった。その後、銀座の繁栄にあやかって全国各地に「○○銀座」と名付けられた商店街が数多く形成されていくようになった。震災後は、東京駅の開業に伴う丸の内の発展や東京市電の整備などにより、百貨店や劇場、喫茶店(カフェー)などが次々と登場し、震災恐慌や金融恐慌などで日本中が不景気に見舞われる中でも発展を続けていく。昭和初期にはアール・デコの影響を受けたモダンボーイ(モボ)やモダンガール(モガ)と呼ばれる人々が町を闊歩し、散策する「銀ブラ」が全盛を極める。

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しかし、日本が戦争へ介入するに伴って銀座もその影響を受けるようになる。戦局の悪化に伴い1940年に贅沢品の製造販売禁止令(七・七禁令)や電力制限による広告灯・ネオンサインの消滅、1944年には警視庁によって劇場・料理店・待合芸妓屋・バー・酒屋が閉鎖され、銀座は大打撃を受けた。その一方で、軍隊の行進や、贅沢を諫める運動なども街頭で行われた。第二次世界大戦末期の1945年1月27日に銀座は初めて空襲を受け多数の死者・重傷者を出した。爆弾は泰明国民学校にも直撃し教員4人が死亡、2人が重軽傷を負った。その後も3月10日、4月28日、5月25日の空襲で銀座は七・八丁目と六丁目の一部を除いて壊滅的な被害を受けることとなる。