
◆水交社
1876年(明治9年)3月21日に海軍省の外郭団体として創設された日本海軍将校の親睦・研究団体である。名称の由来は『荘子』の「君子之交淡若水」から採用命名された。総裁は海軍将官の現役皇族、社長は現任海軍大臣の兼務であった。海軍士官専用の旅館や喫茶店なども経営し、会員と施設利用は海軍士官・高等文官・士官候補生などの海軍幹部関係者に限定だった。水交社自体は太平洋戦争(大東亜戦争)の終戦に伴い、海軍省と共に消滅したが、1952年(昭和27年)に財団法人水交会として復興した。
機関紙「水交社記事」を発行していた。なお水交会編で『回想の日本海軍』(原書房、1985年)が出版されている。
また旧外地の台湾台南市汐見町にかつて水交社の建築物があり(後に眷村になった)、戦後「水交社」が汐見町の代りに地名として現在でも使用されている。明治時代は築地にあった。現在の中央区築地5丁目6番付近で海軍大学校、医学校、経理学校なども現在の築地市場の敷地にあった。
移転後は水交社が消滅するまで東京都港区飯倉町(現港区麻布台2丁目のメソニック38、39MTビルあたり)にあり、紅葉館の敷地と隣接していた山本五十六の葬儀は麻布飯倉町の水交社で行なわれた。1943年(昭和18年)6月に行われた山本五十六元帥の国葬の列は、麻布飯倉町2丁目交差点近くの「水交社本部ビル」から出発した。

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敗戦後の水交社解散後に、空襲から焼け残り空家となった、大きな白い建物であった「水交社本部ビル」は米軍に接収され、米軍関係者のサロンや宿舎に使用された。後に米軍は日本政府へ、「旧日本海軍の水交社を返還する」と通告した。しかし、「水交社本部ビル」が使われなくなっても返還されず、その代わり、占領軍のフリーメイソンによって占拠され、入り口には「メソニック・ビル」の表示が掲げられた。
1949年(昭和24年)暮れに接収が解除された後、1950年(昭和25年)6月に、国(占領下の日本政府の大蔵省)から、土地、建物とも、最低価格の8千万円で優先的に、「宗教法人東京メソニックロッジ協会」(財団法人東京メソニック協会の前身、現・一般財団法人メイスン財団)に払い下げられ、8月には所有権取得登記が行われた。屋上にコンパスと直角定規の大きなシンボルマークが掲げられた時期もあった。
「メソニック・ビル」には、日本のフリーメイソンの中核となる「日本グランド・ロッジ」(1957年(昭和37年)3月設立)が入居していた。現在の黒くて低層の「東京メソニックビル」(東京メソニックセンター、地上2階 地下2階)は1981年(昭和56年)5月に定礎されて(定礎式が行われた年か竣工年かは不明)建て替えられたものだが、一室には水交社時代の応接室が再現されている。
現在の「東京メソニックビル」内には、日本のフリーメイソンの中枢が集まっており、「日本グランド・ロッジ」の他、いくつかのブルーロッジ、リサーチ・ロッジやアメリカ管轄のロッジも含め、事務所が割当てられており、秘書業務・財務業務が行われている。また、付帯組織である「ヨーク・ライト」(York Rite)や「」スコティッシュ・ライト(Scottish Rite)も事務所を構えている。地上1階はエントランスだけで何もない。地上2Fには「日本グランドロッジ」や「ヨーク・ライト」や「スコティッシュ・ライト」などのオフィスやライブラリがあり、地下1Fには各ロッジのオフィスがある。地下2Fにはブルーロッジやスコティッシュ・ライトホールやダイニングホールやキッチンがある。
江戸時代までは九層の階段となっており、徒歩でしか通行できない道であった。明治以後、段差を廃して坂道となったが、見上げるような急傾斜であったため、荷車を上げることは相当困難であった。そこで、食い詰めた人々が「立ちん坊」とよばれる人足となって九段坂下で待ち受けており、荷車を押すことによってなにがしかの報酬を得ていたという。
市電を建設する際にも、当時の技術では九段坂の急傾斜に線路を敷設することは不可能で、堀端の牛ヶ淵沿いに緩勾配の専用軌道を設置して、ようやく電車を九段上まで通すことができた。
九段坂のシンボルとなっている「常灯明台」は、もとは靖国神社入口(旧偕行社、日本住宅公団本部跡)にあったが、震災復興計画による靖国通りの拡幅にともない、通りの南側、田安門入口に設けられた九段坂公園の現在地に移された。旧地であれば、江戸城内堀を通して大手町方面を一望する位置にあり、東京湾から見えたという伝承もうなづける。