【古写真関連資料】写真師に影響を与えた嘉永7年・二度目の黒船来航

【古写真関連資料】最初の黒船来航(嘉永6年、嘉永7年)

ペリー側から銀板写真機、蒸気機関車の4分の1模型、電信機、ピストル、望遠鏡など約140点が贈られた。1854年(嘉永7年)の2度目の来航のときには、ペリーから徳川将軍家にはミシンが送られたとされている。日本側から贈られたものは、硯箱、絹織物、漆器、陶磁器、剣2振、火縄銃3丁、米200俵と鶏300羽を力士に運ばせた。

菊池 常右衛門
黒船来航に遭遇。外国人の写真撮影を見てヨーロッパ化学の勉強を志した。

横山 松三郎
嘉永 7 年、ペリーの米艦隊が箱館に上陸したときに、写真を知る。

久世 治作
嘉永 6 年、ペリー来航のとき、藩命で人足を徴発して警備隊を組織し浦賀に赴任。 このとき、洋学の必要性を痛感し、以来、舎密学を独学する。

宇田川 興斎
嘉永 6 年、ペリー来航の際に箕作阮甫らと共に対米露交渉時に翻訳業で活躍。

下岡 蓮杖
嘉永 6 年、ペリー来航。この頃まで浦賀に在したが写真探求のチャンスは無かった。 嘉永 7 年、ペリーが再び来航。その際、従軍写真家エリファレット・ブラウン・ジュニアが同船していた が、写真術を学ぶことはできなかった。

江崎 礼二
嘉永6年には、前年のペリー艦隊(下田)に同行していた写真家・ エリファレット・ブラウン・ジュニア によりもたらされた写真技術を、大垣藩人夫頭・久世喜弘が現地から大垣に伝えている。

◆黒船来航(嘉永7年)
1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航した。幕府との取り決めで、1年間の猶予を与えるはずであったところを、あえて半年で決断を迫ったもので幕府は大いに焦った。ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えたのである。ここにペリーの外交手腕を見て取ることもできる。

2月11日(嘉永7年1月14日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)が現れ、2月13日(嘉永7年1月16日)までに旗艦「サスケハナ」「ミシシッピ」「ポーハタン」(以上、蒸気外輪フリゲート)「マセドニアン」「ヴァンダリア」(以上、帆走スループ)「レキシントン」(帆走補給艦)の6隻が到着した。2月12日、三浦半島の長井村沖の亀木という磯根にマセドニアン号が座礁し、浦賀奉行所が座礁事件の第一報をペリー艦隊に通報、ペリー艦隊はすぐに救助を向かわせた。奉行所と彦根藩が助力を申し出たが、日本側の救助活動を待たずに、ミシシッピ号が到着してロープで引き出した。日本側は海浜に打ち上げられたバラストを拾い上げ、20マイルも離れた艦隊まで送り届けた。なお、江戸湾到着後に旗艦は「ポーハタン」に移った。2月13日から浦賀奉行所の組頭・黒川嘉兵衛とペリー側のアダムス中佐で、応接の場所について折衝が始まった。奉行所は浦賀の館浦に応接所を建てたが、ペリー側は納得せず、ようやく2月27日になって横浜で決着した。3月6日、横浜に応接所が完成し、3月8日、アメリカ側は総勢446人が横浜に上陸した。3月4日(嘉永7年2月6日)に「サラトガ」(帆走スループ)、3月19日(嘉永7年2月21日)に「サプライ」(帆走補給艦)が到着し、当時としては大規模な計9隻の艦隊が江戸湾に集結し、江戸は大きな動揺を受けた。一方で、やはり浦賀には見物人が多数詰めかけ、観光地のようになっていた。また、勝手に舟を出してアメリカ人と接触する市民もいた。

突然の大艦隊の来航に幕府は驚いたものの、前回の来航のとき同様に日本側もアメリカ側も敵対的な行動を取ることはなく、アメリカ側は船上で日本側の使いに対しフランス料理を振る舞って歓迎した。日本人は鯛を喜ぶという情報を仕入れていたアメリカ側は、鯛を釣って料理するなど、日本側を意識した部分が料理にあった。アメリカ側の記述によると、最後に本来ならメニューを持ち帰るべきところを料理そのものを懐紙に包んでもって帰り、しかも、さまざまな料理を一緒くたに包んでいたことに驚いたという。ただしこの振る舞いは本膳料理には『硯蓋』という揚げ菓子があり、それを持って帰るのが作法であることに由来したものであった。

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その応饗として、横浜の応接所で最初の日米の会談が行われたあと、日本側がアメリカ側に本膳料理の昼食を出した。料理は江戸浮世小路百川が2,000両で請け負い、300人分の膳を作った。2,000両を現代の価値に計算すると約1億5,000万円近く、1人あたり50万円になる。最上級の食材を使い、酒や吸い物、肴、本膳、二の膳、デザートまで100を超える料理が出された。しかし、「肉料理が出ないのは未開であるため」という偏見や、総じて生物や薄味の料理が多かったこと、1品あたりの量がアメリカ人にとっては少なかったことから、ペリーは「日本はもっといいものを隠しているはずだ」と述懐している。ただし、「日本はできる限りのことをやった」と述べたアメリカ側の人物もいる。その後、日本側は何かにつけてアメリカ側に料理を食べに行ったとされる。。

3月8日の横浜応接所での交渉において、日本側はアメリカ大統領の親書に対して、薪水、食料、石炭の供与および難破船と漂流民救助の件は了承するが、通商の件は承諾できないと回答した。林大学頭とペリーの応酬の結果、ペリーは通商の要求を取り下げた。翌3月9日、日本側がペリーに、避難港の開港に関しては5年間の猶予期間を置き、それまでの間は長崎を充てるとする書簡を渡した。3月10日、ペリー側からアメリカの土産を献上したいと提案があり、3月13日に献上品の目録と返礼品の目録が渡された。蒸気機関車の4分の1モデルをはじめ、献上品は全部で140点にのぼった。3月11日にはアメリカ側から即刻の開港と条約締結を要求する書簡が届けられた。3月15日、日本側は以前と同じ内容の条約草案を渡した。3月17日、横浜の応接所で会談が行われ、アメリカ側は3月24日までに数か所の開港を要求した。3月19日、林大学頭らは江戸に戻り、老中と相談。3月24日、横浜会談において、下田と函館の2港開港が合意された。3月28日、横浜での会談で、ペリーは下田の遊歩区域と下田にアメリカ人の役人を駐在させることを要求したが、林は貿易を始めるなら必要となろうが、たまに薪水食料を供与するだけであるため、応じかねると返答。18か月後に来るアメリカの使節と再度話し合うことで合意した。3月29日に徒目付の平山謙次郎らを派遣して協議の結果、遊歩地の件は7里四方で、開港日は条約上では即刻、実際は来年4月か5月で、条約調印の日は3月31日で合意した。3月30日、平山を派遣し、条約草案を互いに示して相談した。条約の調印形式について、ペリー側は諸国の慣例通りに、林、井戸、ペリーの名前を一列に書く案を提示したが、日本側はそれぞれの署名を別紙に認めて交換するよう主張し、押し通した。

約1か月にわたる協議の末、3月31日(嘉永7年3月3日)、ペリーは約500名の将官や船員とともに武蔵国神奈川近くの横浜村(現・神奈川県横浜市)に上陸し日本側から歓待を受け、その後林復斎(日本側全権・応接掛(特命全権大使)に任命)を中心に交渉が開始され、全12か条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結されて日米合意は正式なものとなり、3代将軍徳川家光以来200年以上続いてきた鎖国が解かれた(直後の4月25日に吉田松陰が外国留学のため密航を企てポーハタン号に接触している)。その後、5月下旬(嘉永7年4月下旬)に視察のため箱館港に入港、松前藩家老格・松前勘解由に箱館港に関する取り決めを求めるが、権限がないとして拒絶される。箱館から戻ったあと、伊豆国下田(現・静岡県下田市)の了仙寺へ交渉の場を移し、6月17日(嘉永7年5月22日)に和親条約の細則を定めた全13か条からなる下田条約を締結した。

ペリー艦隊は6月25日(嘉永7年6月1日)に下田を去り、帰路に立ち寄った琉球王国とも正式に通商条約を締結させた。ペリーはアメリカへ帰国後、これらの航海記『日本遠征記』(現在でもこの事件の一級資料となっている)をまとめて議会に提出したが、条約締結の大役を果たしたわずか4年後の1858年に63歳で死去した。その後、アメリカは熾烈な南北戦争に突入し、日本や清に対する影響力を失い、結局イギリスやフランス、ロシアが日本と関係を強めたうえに、清に対する影響力を拡大してしまった。

昭和20年(1945年)9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ艦上で日本の降伏文書調印式が行われた際、このときのペリー艦隊の旗艦「ポーハタン」号に掲げられていたアメリカ国旗が本国より持ち込まれ、その旗の前で調印式が行われた。1854年7月に琉球からペリー艦隊に送られた梵鐘はアナポリス海軍兵学校に飾られ、同学校フットボール優勝祝賀会で鳴らされていたが、1987年に沖縄に返還されている。この鐘は正式名称を「旧大安禅寺鐘」、通称「護国寺の鐘」といい、1456年製造という。