【古写真の調査後売却】東京府知事・井上友一(写真師・丸木利陽)

◆井上 友一
(いのうえ ともいち、明治4年4月10日(1871年5月28日) – 大正8年(1919年)6月12日)は、東京府知事を務めた、地方行政を専門とした内務官僚。号は明府。弟に、陸軍中将・井上一次。救済事業の精神は、救貧より防貧、さらに教化が重要であると考え、感化救済事業や地方改良運動などを推進した。

明治4年4月(1871年) – 加賀藩士族井上盛重の長男として金沢市に生まれる。
明治17年(1884年) – 石川県専門学校に入学する。
明治20年(1887年) – 第四高等学校へ進学する。
明治23年(1890年) – 東京帝国大学へ入学。
明治26年(1893年) – 東京帝国大学法科を卒業し、内務省に入る。
8月 – 内務属・内務省県治局に勤務する。
明治28年(1895年)1月 – 内務省県治局市町村課長となる。
明治29年(1896年)4月 – 内務書記官となる。
明治30年(1897年)9月 – 内務省県治局府県課長となる。
10月 – 内務大臣秘書官を兼ねる。
明治31年(1898年)11月 – 内務省地方局府県課長となる。
明治33年(1900年)6月 – 欧州出張を命ぜられ、フランスのパリでの万国公私救済慈恵事業会議に出席する。
明治34年(1901年)3月 – 欧州出張から戻る。
同年 – 行政裁判所評定官を兼任。
明治36年(1903年)7月 – 内務大臣秘書官の兼務を解かれる。
明治39年(1906年)11月 – 勅任内務参事官兼内務書記官となる。
明治41年(1908年)7月 – 内務省地方局府県課長を解かれ、内務省神社局長兼地方局府県課長となる。
明治42年(1909年)5月 – 法学博士となる。
大正元年(1912年)11月 – 地方局府県課長の兼務を解かれる。
大正4年(1915年)4月 – 明治神宮造営局長を兼任。
7月2日 – 東京府知事となる。
大正8年(1919年)6月12日 – 帝国ホテルで渋沢栄一らと会食中に、脳溢血[1]により死去。

丸木 利陽
旧姓は竹内惣太郎。 父は竹内惣太郎(竹内宗十郎)。 明治維新後、福井藩士・丸木利平の養子となる。 明治 8 年、東京に出て二見写真館に写真を学ぶ。 明治 13 年、独立し、東京・麹町(相馬邸内)に丸木写真館を開業。 明治 15 年、成田常吉が学んでいる。 明治 20 年、嘉仁親王(後の大正天皇)が近衛連隊兵営訪問の際に、親王、皇族、将校等との集合写真の 撮影に指名された。 明治 21 年、前川謙三が学んでいる。 明治 21 年、小川一真とともに明治天皇、昭憲皇太后を撮影。 明治 22 年、開業地に国会議事堂が建設されることになり、新シ橋外に移転。 明治 23 年、「丸木式採光法」を発明し、第 3 回内国勧業博覧会で 3 等賞を受賞。 明治 42 年、日英博覧会に出品。 大正 2 年、宮内省嘱託。 大正 4 年、東京美術学校(現・東京芸大)の写真科創設に携わる。 小川一真、黒田清輝とともに帝室技芸員として大正天皇も撮影している。 東京写真業組合の組合長も務めた。 大正 12 年、死去。 門下に小川一真とともに宮内省写真部を設立した東京芝白金の前島英男(前島写真館)もいる。