【古写真の調査後売却】明治初期の神戸風景(鶏卵紙、手札名刺サイズ)

神戸風景写真師台紙鶏卵紙

◆神戸市

兵庫県の南部に位置する同県の県庁所在地。垂水区・須磨区・長田区・兵庫区・中央区・灘区・東灘区・北区・西区から構成される政令指定都市。人口は約152万人で市としては全国7番目、県内最大である。

神戸市は、明治初期まで使われた律令制では、畿内(かつての首都圏)の西の境に位置し、現在の須磨区と垂水区を境に東は五畿内の摂津国、西は播磨国であった。

神戸港の前身となる沿岸地域は京・大坂の外港・経由地として栄え「兵庫津」と呼ばれた。遣隋使の時代には、すでに港は開かれていたが、平清盛により経が島の近くに都である福原京が計画された前後に貿易の拠点として整備され大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれたことがその発展の始まりとされる。

江戸時代に、西宮宿(現在の西宮市)と大蔵谷宿(同じ兵庫県の明石市)とを繋ぐ宿場として兵庫津が存在した。兵庫津は自治組織として港町として扱われた浜方と、宿場町を司る岡方とが存在した。本陣は浜方と岡方の双方に存在したが、江戸時代中期以降は浜方の本陣の利用を希望する大名家が漸増した。

江戸幕府が欧米と締結した条約による1868年の兵庫港の開港の際、神戸村が事実上の開港場となり、外国人居留地や港が造られ、1879年に勅令により「神戸港」となる。その後、日清戦争・第一次世界大戦を経て上海・香港・シンガポールをしのぐ規模となり、1990年代の平成初期までの間、東洋最大の港として発展を続けた。一方、港と共に造船・鉄鋼・機械を中心とした工業も発達し、阪神工業地帯の中核を担う日本有数の重工業都市に成長する。県名の由来にもなっている「兵庫」と神戸とは元来別々の町村であったが、市域の拡大によって一つの都市としてまとまっていった。

太平洋戦争末期、他の諸都市同様に米軍の重要な戦略目標であった神戸はB29による度重なる空襲を受け、当時の市街地・工業施設・港湾施設の大半を破壊・焼失し、多くの犠牲者を出した(神戸大空襲)。

戦後の高度経済成長期には、市街後背部の山地より削り取った土砂を用いてポートアイランドを代表とする人工島を臨海部に埋立造成し、商工業・住宅・港湾用地として整備するとともに、埋立用土砂採取後の丘陵地を住宅地・産業団地として開発した。この一連の施策は「山、海へ行く」と呼ばれ、都市インフラの拡充・整備が大きく進むことになった。1981年のポートアイランド第一期竣工時には、地方博ブームの先駆けとなる「神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア’81)」を開催して成功させるなど、これらに代表される都市経営手法は、「株式会社神戸市」と称され全国の市町村から自治体経営の手本とされた。

平成史に残る都市災害となった阪神・淡路大震災が1995年1月17日に発生した。神戸市内は甚大な被害を受けた。震災での被害による港湾機能の麻痺や、震災以前からの上海・香港・高雄・釜山などに代表されるアジア諸港の追い上げによって、国際貿易港としての相対的地位はかつてと比べると低下した。しかし、近年の震災復興により国際貿易港としての地位を回復する傾向にあり、日本を代表する港湾都市の一つとして発展を続けている。

また、人口においても震災直後に7%余り減少したものの、新長田駅前・JR六甲道駅前での震災復興再開発事業やポートアイランド二期事業・神戸医療産業都市構想などの事業によって呼び戻されて2011年には154万9000人に達した。しかしながらその後は、大阪市への流出など人口減少が続き2015年に福岡市、2019年には川崎市を下回り、政令市で7位となっている。

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