
内田 九一は、万延元年、叔父の長崎萬屋町の医師・吉雄圭斎に引き取られた。 吉雄圭斎の家に育てられ、松本良順の庇護を受け、医学伝習所のポンペに写真術の手ほどきを受けた。吉雄圭斎は出島のオランダ商館出入り医師。
◆長崎・出島
1634年江戸幕府の外人流入防止政策の一環として長崎に築造された人工島。扇型で、面積は3,969坪(約1.5ヘクタール)。1636年から1639年まで対ポルトガル貿易、1641年から1859年までオランダ東インド会社(AVOC、アムステルダムに本部のあるVereenigde Oostindische Compagnie)を通して対オランダ貿易が行われた。出島全体は1922年(大正11年)10月12日、「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定されている。
明治以降は、長崎港の港湾整備に伴う周辺の埋立等により陸続きとなり、扇形の人工島であった頃の面影は失われたが、1996年(平成8年)より、江戸当時の姿への復元を目指す出島復元整備事業計画が長崎市により進められている。
出島は1634年から2年の歳月をかけて、ポルトガル人を管理する目的で、幕府が長崎の有力商人に出資させて作らせた。建設費銀200貫目(約4,000両)これを今のお金に換算すると約4億円となる。江戸中期に長崎貿易を調査した大岡備前守清相の『崎陽群談』には、面積3924坪船着き場45坪と記載されている。
築造費用は、門・橋・塀などは幕府からの出資であったが、それ以外は高木作右衛門、高島四郎兵衛などの長崎の25人の有力者(出島町人)が出資した。ポルトガル人は、彼らに土地使用料を毎年銀80貫支払う形式となっていた(初代のオランダ出島商館長(カピタン)となったマクシミリアン・ル・メールが交渉し、借地料は銀55貫目、現在の日本円で約1億円に引き下げられた)。

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1638年の春に幕府は、島原半島と天草諸島のキリシタンの百姓が起こした島原の乱を鎮圧した。それ以降幕府は、キリシタンの摘発をより強化し、禁教の徹底のためにカトリック国であるポルトガルとの関係を断絶しようとした。しかし、現実には、ポルトガルがマカオからもたらす中国産の生糸などが当時の日本にとって必要不可欠であり、オランダ東インド会社への信頼に不安を感じていたため、幕府は、1638年にはポルトガルとの貿易の断絶に踏み切れず、その代わり、マカオから江戸に派遣されたカピタン・モールの将軍への謁見を拒否するだけにとどまった。
1639年、オランダ商館長のフランソワ・カロンが江戸に参府し、ポルトガルとの関係の断絶を幕閣に訴え、オランダがポルトガルに代わって、日本が求める輸入品を確実に提供できることを主張した。幕閣はカロンから、台湾や東南アジアから渡航する中国人が、直接長崎に来航することが問題ないことや、オランダがスペインとポルトガルに妨害されず長崎に来航できること、台湾に渡航する中国人を通じて、オランダが日本が求める輸入品を確保でき、かつ、台湾に渡航する中国人が明朝の渡航証明書を持っていることなどを確認し、ポルトガルとの関係を断絶しても支障がないと判断した。その結果として、同年、幕府は長崎奉行や九州地方の大名に「第5次鎖国令」を発布して、ポルトガル人を出島から退去させた。翌年の1640年には、マカオからのポルトガルの使節が、貿易再開を要求して長崎に渡来した。これに対して幕府は、ポルトガルの使節を処刑することで、ポルトガルとの貿易を改めて再開しない意思を示した。
その後、出島は無人状態となり、貿易利潤の損失だけでなく土地使用料も入らなくなったために、長崎の町は困窮した。幕府は出島築造の際に出資した人々の訴えを踏まえ、1639年に建設された倉庫の破風に西暦年号が記されているのを口実として、1641年に平戸(ひらど、現在の平戸市)のオランダ東インド会社の商館を出島に移すように求めた。オランダ側にはこれに反対する意見もあったが、商館長カロンはこれを受け入れた。以後約200年間、出島には武装と宗教活動を規制されたオランダ東インド会社社員等が居住することになり、それまでのポルトガル人同様にオランダ人も幕府の監視下に置かれることとなった。
通常、長崎には毎年2隻のオランダ船が季節風を利用してバタヴィア(現在のジャカルタ)を出港し、バンカ海峡、台湾海峡などを経て、女島諸島、さらに野母崎をめざしてやってきた。例年7 – 8月ごろ来航し、その年の11 – 12月に帰路につくまでの約4ヶ月の滞在であった。船がいる間は多くのオランダ人を中心にした欧州人、マレー人が滞在していたが、それ以外の期間は商館長(カピタン)、次席商館長(ヘトル)、倉庫長、書記役(1 – 3人)、 商館医、商館長の補助員数人、調理師、大工、召使(マレー人)など15人前後の人が住んでいた。 翌年夏にオランダ船が入港するまでの間には、貿易に関する仕事や江戸参府などを行っていた。
オランダ商館長は、歴代、通商免許に対する礼として江戸に下り、将軍に謁見して貿易の御礼を言上して贈り物を献上している。これを「カピタンの江戸参府」といい、毎年、定例として行うようになったのは1633年(寛永10年)からであり、商館が平戸から長崎に移されて以後も継続された。1790年(寛政2年)以降は4年に1度と改められたが、特派使節の東上は1850年(嘉永3年)まで166回を数えた。江戸の長崎屋、京の海老屋は「阿蘭陀宿」として使節の宿泊にあてられた。
出島は長崎奉行の管理下にあり、その下にさまざまな人が出島で働いていた。「出島乙名(おとな)」は出島の責任者で、貿易についての監督や、出島内で働いている日本人の監督、指専や、出島に出入するための門鑑(通行許可書)の発行などを行った。「オランダ通詞」はオランダ語の通訳をする役人で、大通詞、小通詞、稽古通詞などの階級に分かれていた。大通詞は大体4名で交代で年番通詞を勤め、オランダ人の江戸参府に同行したり、風説書や積み荷の送り書きの翻訳をした。そのほかに日行使(にちぎょうし)、筆者、小使、火用心番、探番(門番)、買物使、料理人、給仕、船番、番人、庭番など、100人以上の多くの日本人が働いていたといわれる。
ケンペルが「国立の監獄」と表現したように、原則として日本人の公用以外の出入りが禁止され、オランダ人も例外を除いて狭い出島に押し込められた(医師・学者としての信頼が厚かったシーボルトなどは外出を許されていた)。
出島表門には、制札場があって「定」と「禁制」の2つの高札がたてられていた。「定」というのは、日本人、オランダ人で悪事を企む者(抜荷(ぬけに)・密貿易等)があったら、すぐ告訴せよ、告訴すれば賞金を与えるという趣旨の高札である。
つまり遊女以外の女、高野聖のほかの山伏や僧侶、勧進や乞食の出入り、出島の外周に打ってある棒杭の中、橋の下への船の乗り入れ、そして、オランダ人は許可なく出島からの外出が禁じられていた。
1651年に長崎諏訪神社が勧請造営され、祭礼長崎くんちも始められると、中国人と共にオランダ人も桟敷席での観覧が許された。
1797年(寛政9年) – オランダがフランスに占領されてしまったため、数隻のアメリカ船がオランダ国旗を掲げて出島での貿易を行う。1809年(文化6年)までに13回の来航が記録されている。
詳細は「黒船来航」を参照
1798年4月3日(寛政10年3月6日)、出島に大火が発生し西側半分を焼失。カピタン部屋も焼けた。他の建物は間もなく復旧したが、カピタン部屋は、オランダ商館の費用で建てることになっていたため、商館の財政難のため10年ほど再建されることはなかった。商館長ヘンドリック・ドゥーフによって建てられた新しいカピタン部屋は1809年1月に完成。
1804年(文化元年)9月にロシアからニコライ・レザノフが出島に来航し、ロシアとの国交樹立、通商を要求した。だが、レザノフたちは半年間出島に留め置かれ、翌年に長崎奉行所において、通商の拒絶を通告され釈放された。
文化5年8月(1808年10月)、フェートン号事件といわれるイギリス軍艦侵入事件が発生。武装ボートによって出島のオランダ商館員2名が拉致され、フェートン号に連行された。その後、食料や飲料水とひきかえに商館員は釈放された。
1810年、オランダが皇帝ナポレオンの率いるフランスに併合され、翌11年にはバタヴィアがイギリスの占領下に置かれたため、1810年から3年間、出島には1隻のオランダ船も入港しなかった。この間、食料品などの必需品は、幕府が無償で提供し、長崎奉行は毎週2、3回、人を遣わして不足品があるかないかを問い合わせていた。その他の支払いについては、長崎会所の立て替えを受けてしのいでいたが、それでも文化9年(1812年)には、その総額が8万200両を超えた。この間、オランダ商館は商館長ドゥーフの所蔵している書籍を売るなどして財政難をしのいだ。その後、1815年にはネーデルランド王国が成立。つまりこの5年間、世界中でオランダ国旗がひるがえっていたのはここ出島だけだった。
1817年7月、ブロンホフが妻ティティアと子ジョンや乳母・召使いを同伴して商館長として着任した。幕府は女性を出島に入れる事を拒んだが、町の絵師達はこぞって彼女を題材に絵を描き、または人形を制作するなどした。家族は16週間の出島滞在の後、同年12月ドゥーフと共にオランダに帰国した。
文政11年(1828年)9月、オランダ商館付の医師であるシーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死した。シーボルトは文政12年(1829年)に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けた(シーボルト事件)。
ペリー来航によって日本が開国されることになった翌年の1855年(安政2年)に日蘭和親条約締結によってオランダ人の長崎市街への出入りが許可された。1856年には出島開放令と共に出島の日本人役人が廃止され、3年後の1859年には、出島にあったオランダ商館も閉鎖され、事実上「出島」としての存在意義は失われた。1860年、「長崎海軍伝習所絵図」でオランダの軍人を教師に、幕府海軍の海軍士官を養成した。
出島のある長崎港は、明治以降埋め立て等の改修・改良工事が度々実施されており、その中でも明治時代の二度の大規模な港湾改修事業は、出島の姿を大きく変えることになった。1882年(明治15年)から始まった最初の港湾改修(第一次長崎港港湾改修事業)では、1886年(明治19年)から実施された中島川の変流工事に伴う川幅拡張により北側の敷地(出島全体の4分の1に相当)が削り取られ、1888年(明治21年)には東側の護岸部分から築町との間が埋め立てられ、陸続きとなった[14]。 次いで、1897年(明治30年)に始まった港湾改修(第二次長崎港港湾改修事業)では南側の埋め立てが進められ、1904年(明治37年)の竣工時には完全な陸続きとなり、往時の扇型の姿は完全に失われた。 敷地内も時が経つにつれて住宅や医院、商店が建ち並ぶようになり、出島が国の史跡として登録された1922年(大正11年)時点では、道路を除くすべての土地が民有地となっていた。