【古写真の調査後売却】陸軍省参与官・八田宗吉(大判台紙)

陸軍省参与官・八田宗吉

◆八田宗吉(はった そうきち)
日本の政治家、実業家、陸軍軍人である。1874年(明治7年)10月9日生まれ。幼名は吉之丞。立憲政友会所属の衆議院議員。馬議員、鉄道代議士、百姓代議士などの異名があった。 日本医科大学教授で衆議院議員の八田貞義は息子。福島県河沼郡日橋村(現・会津若松市)出身。福島中学を経て、陸軍軍人となり歩兵大尉まで進級している。故郷である日橋村村長となったのが政治家としての第一歩で、県議会議員、参事会員を歴任。実業家としては福島県農工銀行、只見川水力電気、日本化学工業、会津電力の役員を務めている。1917年(大正6年)福島二区から衆議院議員に初当選。立憲政友会に所属し、当選は8回を数える。陸軍省参与官、馬政調査委員を務め、日本競馬会の設立や競馬法の成立に尽力。会津地域の鉄道整備にも努めている。 稚松会会員。1938年(昭和13年)1月16日死去。

◆息子・八田貞義
日本の政治家。自由民主党衆議院議員。1979年に勲一等瑞宝章受章。現在の福島県会津若松市出身。父は陸軍省参与官などを務めた八田宗吉。会津中学を経て1933年に日本医科大学を卒業後、東京市衛生試験所医学部長、厚生省国立衛生試験所細菌部長、日本医科大学教授を経て、1955年の第27回衆議院議員総選挙に自由党公認で福島2区から立候補し初当選。以後通算当選9回。恩給問題に詳しく、予算編成では党の実力者として恩給予算の適正化に尽力した。自由民主党では池田→前尾→大平派に所属し、1962年には第2次池田内閣第2次改造内閣にて内閣官房副長官を務めるなどしたが、1963年に同一選挙区から初当選した伊東正義が大平正芳の古くからの親友であったため、以降伊東に地盤を切り崩されるようになる。1976年の総選挙で落選したのを機に中曽根派へと移り、1979年の総選挙で返り咲くが、1983年に再度落選し、政界から引退した。元秘書であった渡部恒三にも地盤を切り崩されたことも大きく影響していた。1986年12月20日死去。享年77。なお、八田の元秘書に、早川広中、渡部篤らがいる。

◆写真師・大武丈夫(おおたけ たけお)
天童藩士・大武可直の長男。明治 24 年(23年とも)、仙台市の白崎民治の写真館に学ぶ。 白崎家では家事なども兼ねて奉公していた。明治 32 年(34 年とも)、白崎民治の写真館の斜め向かい(仙台市東一番町 55 番地)にて開業。明治34年、父を天童から仙台に呼び寄せた。明治37年、仙台市の植村惣吉(写真師)の二女・「植村しめ」と結婚。明治40年、 白崎民治と大武丈夫が中心となり、「仙台写友会」結成。明治40年頃、小西六(杉浦六三郎)にドイツ製の最新レンズを発注。これを縁に、 杉浦六三郎の推薦で宮内省御用写真師となる。
明治 41 年、皇太子時代の大正天皇の松島行啓を撮影。 明治 42 年、東京・日比谷に移り開業。大武写真館。明治42年、当時商工大臣であった高橋是清のポートレイトをドイツ国際写真コンテストに出品し、最高賞を得ている。 明治 43 年、火災により全焼。 明治百美人(日本初の美人コンテスト)で、二等の金田ケン子を撮影している。 孫文、島津良子、後の香淳皇后(大正11年)の写真などを写したといわれている。 昭和 5 年、死去。写真館は門人の小関昌輔が引き継いだ。