【古写真関連資料】写真師・山岡松子の父、幕臣・山岡鉄舟

【古写真関連資料】幕臣・山岡鉄舟

山岡 松子
中島待乳の門人として名が残る。父は著名な剣士・山岡鉄舟。長女として生まれる。 幼いころから竹刀を持ち道場で山岡無刀流の修行をした。 のち、写真師と結婚したが死別。 東京日日新聞社会部の「戊辰物語」を編著。 昭和 19 年、死去。墓所は全生庵(東京都台東区谷中5-4-7)。
結婚した写真師については特定できていない。
山岡鉄舟の門下である石坂周造(慶応4年山岡鉄舟預かりの身となっている幕末の志士)の子・石坂宗之助は、山岡鉄舟の娘と結婚し山岡宗之助となる。初期の資料では「山岡松子の養父」という表記があるが、後期の公的資料『人事興信録・第4版』の山岡直記の箇所に「 姉 まつ 宗之助妻」と書かれている。ただし、写真師であったという明記はない。宗之助はアメリカに 7 年間留学し、明治 15 年、小嶋良太郎・佐藤文作と内務省石油試験取調局御用掛になった人物で、 明治21年、33 歳で死去している。

金丸 源三
甲斐国生まれ。代々武田家家臣・土屋氏の家来の家柄。 本姓は高橋。島霞谷に写真術を学ぶ。 明治初年、東京浅草厩橋で開業。 勝海舟や山岡鉄舟、山内容堂、吉原芸妓・今紫、人気役者・沢村田之助などの肖像を撮った。

天田 愚庵
明治 11 年、山岡鉄舟の推薦で清水次郎長(侠客、博徒)に預けられる。 明治 12 年、父母妹を探しながら旅回りの写真師となるために、山岡鉄舟を保証人として写真師・江崎礼二の門下となる。(画家・後姓田芳柳の勧めとも言われるが不詳) 小田原で写真店を開業し、伊豆、東海地方などを回るが父母妹の手がかりは無く、清水次郎長の養子とな り、山本五郎、鉄眉と号を改める。 明治 14 年、小田原の写真館を廃業。

◆山岡 鉄舟
幕末から明治時代の幕臣、政治家、思想家。剣・禅・書の達人としても知られる。鉄舟は居士号、他に一楽斎。通称は鉄太郎(鐵太郎、てつたろう)。諱は高歩(たかゆき)。一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。「幕末の三舟」のひとり。栄典は従三位勲二等子爵。愛刀は粟田口国吉や無名一文字。江戸に生まれる。家が武芸を重んじる家だったため、幼少から神陰流や北辰一刀流の剣術、樫原流槍術を学び、武術に天賦の才能を示す。浅利義明(中西派一刀流)門下の剣客であり、明治維新後は一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖となる。幕臣として、清河八郎とともに浪士組を結成。江戸無血開城を最終決定した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、徳川慶喜から直々に使者として命じられ官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会して交渉、大枠を妥結して、江戸無血開城の立役者となった。明治政府では、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞、宮内少輔を歴任した。勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)と大柄な体格であった。

◆石坂 周造
山岡 松子の夫・石坂宗之助の父。幕末の志士。尊皇攘夷論者。明治期には石油産業の祖として知られる。幼名は源造、号は宗順。江戸では彦根藩脱藩浪士を自称していた。信濃国水内郡桑名川村(現・長野県飯山市)に渡辺彦右衛門の次男として生まれとしている資料が多い。ただし、碑文には「両国生まれ」と記載されており。また、生前に出版された自伝「石坂翁小伝」には他のほとんどの資料と矛盾する以下の記述がある。石坂翁小伝の記述が正しければ複雑な出生と養子縁組を繰り返している事となる。一般的な資料には6歳で飯山の英岩寺に入門し、11歳で高源院に移り、その後江戸に出て石坂宗哲の養子となったとある。石坂翁小伝の記述が正しければ、出戻り養子であり、また実子である可能性もあるが小伝に実父への戻り養子であったかどうかの明確な記述は無い。養子として戻った後は、石坂塾で学んだとあり、また、その間の事は「其間は何も申し上げる程の事はありません」と自ら述べている。22歳にして尊皇攘夷に目覚めた。石坂塾で同志を集め、禁令を犯して征夷大将軍の君側の奸を除く「密談」を行い、斬奸書を配っていたところ発覚し、乳母の手引で僧侶に化けて命からがら逃走した。この江戸からの逃走中に、岡っ引き40〜50に囲われ刀を振るって飛び出した所、遠巻きに囲うだけで戦闘にならずに逃げ出せたり、一度は諦めて切腹するも不思議に生き残っている逸話を語っている。その後、清河八郎と共に尊皇攘夷運動に荷担し、「虎尾の会」に参加する。幕府を欺いて浪士組を結成。浪士組(後、新選組と新徴組に分離)頭取の一人に就任して文久3年(1863年)3月、京都に入った。京都に入ってからも清河八郎らと尊皇活動を続けて、水戸藩出身の芹沢鴨や佐幕派の近藤勇らに反感を買う。石坂自身も上洛道中より近藤達に良い感情を抱いていなかったらしい。やがて京都から江戸へ帰還するよう命令が下ると、大半の浪士達を率いて江戸へ戻るが、幕府を欺いた罪により同年4月13日、幕臣・佐々木只三郎らに清河八郎は斬殺され(この時石坂は八郎の首と攘夷党への連盟状を奪い返している)、石坂もまた翌14日に下総国佐原で幕吏に包囲されて5年間投獄された。預かり先を転々としながら幕府瓦解を獄中で過ごし、慶応4年(1868年)3月15日に山岡鉄舟預かりの身となる。妻の桂子は高橋泥舟の妹であり、桂子の姉・英子は鉄舟の妻である。その後赦免されて民間事業に取り組み、石油産業で成功した。1871年(明治4年)東京に長野石炭油会社を設立。アメリカから輸入した綱掘り式掘削機械で相良油田から石油を採集した。明治36年(1903年)、死去。享年72。鉄舟が建てた全生庵(東京都台東区谷中)に眠る。