石光 真清(いしみつ まきよ)

石光 真清写真師ハルピン

石光眞清の表記もある。
父は熊本藩士・石光真民、母は石光守家。祖父は熊本藩士・石光文平(石光真民の父)。石光真民の弟「石光豁通(野田豁通)」は15歳で同藩勘定方の野田淳平の養子となり、陸軍監督総監(陸軍主計総監)となっている。

石光家は熊本藩主細川家の肥後入国時からお供をした家柄で、下級武士であったが、幕末期に100石と記載されている。実学党系士族。
父の熊本藩士・石光真民は学問に熱心で、後に妻となる守家の実家の私塾で学び、19歳で塾頭になっている。のち勘定方書記として藩庁に出仕。中小姓格から産物方頭取へ昇進し、財政に大きな余裕を生み、家老の信任を得ている。

明治元年、四男として生まれる。幼名は石光忠三、のち石光正三。
明治10年、父・石光真民が死去。本山小学校に入学し、当時の学友に徳富蘆花(作家)、鳥居素川(大阪朝日新聞記者)、元田亨一(陸軍中将)、嘉悦敏(陸軍少将、嘉悦氏房の二男)がいた。
明治12年、熊本師範附属小学校に転校。
明治13年、熊本県立中学校に入学、のち共立学舎に転校。
明治16年、陸軍幼年学校に入学。名前を石光真清と改める。
明治19年、陸軍士官学校に入学。
明治22年、陸軍士官学校卒業(旧11期)。近衛歩兵第2連隊付(少尉)勤務。
明治24年、大津事件(ロシア帝国皇太子・ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)の暗殺未遂事件)に遭遇し、ロシア研究を始める。
明治25年、正八位。 
明治28年、日清戦争で台湾に出征(中尉)。
明治29年、歩兵第9連隊付。ロシア留学を許可される。
明治30年、幼年学校教官。第9連隊付(大尉)。
明治31年、参謀本部付。
明治32年、休職し、私費でロシア帝国(ブラゴヴェシチェンスク)に渡航。ロシア帝国軍人の家庭に寄寓。
明治33年、ブラゴヴェシチェンスクで起きたロシアによる中国人(清国人)3000人の虐殺「江東六十四屯アムール川(黒龍江)事件」に遭遇。
明治33年、歩兵第九連隊(露國)と、陸軍士官学校第十一期卒業者名簿に記されている。
明治33年、任参謀本部付、露国差遣。
明治34年、予備役編入。ハルピン(ハルビン)で洗濯屋や写真館を経営。ロシア軍の御用写真師となり、満州の地理や駐留ロシア軍についての情報を集めた。
明治37年、日露戦争が開戦し、出征(第二軍司令部副官)。のち遼東守備軍付。のち得利寺兵站司令官・第二軍管理部長。
明治39年、関東都督府陸軍部付通訳。召集解除、復員。
明治40年、日清通商公司の長春支店長となる。
明治41年、会社解散し帰国。
明治42年、東京世田谷の三等郵便局長となる。
大正6年、ロシア革命が勃発。田中義一参謀本部次長(後の内閣総理大臣)から影響調査を命じられる。関東都督府陸軍部嘱託、アレクセーフスクニ付近に駐在して諜報活動に従事。
大正7年、シベリア派遣軍司令部付、アムール政府付。シベリア出兵、ロシア革命の動乱の中で活動。
大正8年召集解除。関東軍嘱託。貿易公司破綻。錦州に特務機関設置。
大正10年、朝鮮人の満州移住水田開発事業、朝鮮協会設立などに関わる。後備役満期。
大正13年、会社を放棄して帰国し、隠棲。
昭和17年、死去。没後、息子の石光真人(『東京日日新聞』記者、日本ABC協会専務理事)が手記(遺稿)四部作『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』を編集し完成させた。 そのうち『城下の人』『曠野の花』は1958年に毎日出版文化賞を受賞し、伝記作家の小島直記、評論家の呉智英などが評価している。

熊本駅近くにある木造2階建ての旧居が「石光真清記念館」として保存・公開されている。

妻は肥後細川藩士族家で軍人・菊池東籬の長女「菊池辰子」。
兄の石光真澄は三井物産社員、恵比寿麦酒支配人。
弟の石光真臣は本山小学校でともに学び、のち陸軍中将となった。
妹の石光真都は大日本麦酒の元常務取締役橋本卯太郎の妻、政治家橋本龍伍の母。
娘の石光菊枝は法学者・東季彦の妻。
孫に作家の東文彦。
おじに野田豁通(軍人、陸軍監督総監、男爵)、栃原知定(教育者、熊本師範学校教諭・熊本県立中学校長)、いとこに下村孝太郎(化学者、同志社第6代社長、大阪舎密工業(現:大阪ガス)社長)、林田亀太郎(官僚、政治家、衆議院書記官長・衆議院議員)、浮田和民(政治学者、同志社教授・東京専門学校(現:早稲田大学)教授)、甥・橋本龍伍(官僚、政治家、文部大臣・厚生大臣)がいる。

生年/出身: 1868 熊本(熊本市本山町)

開業年: 1901

開業地、主要拠点: 海外(中国・ハルビン)、ロシア

師匠:

弟子: