
◆写真師 内田九一 鶏卵紙
医療器械薬種を業とした内田忠三郎の子。 本名・諱は「重」 弘化元年、長崎銅座町(または長崎万屋町)に生まれる。 生年については、死亡を知らせる記事(明治 8 年 2 月付読売新聞など)に、享年 32 歳とあるため、逆算 による。 嘉永 6 年、父が亡くなる。 安政 5 年、母が亡くなる。 万延元年、叔父の長崎萬屋町の医師・吉雄圭斎に引き取られた。 吉雄圭斎の家に育てられ、松本良順の庇護を受け、医学伝習所のポンペに写真術の手ほどきを受けた。吉雄圭斎は出島のオランダ商館出入り医師。のち熊本病院初代院長。名は種文という。 松本良順は幕府の奥医師、医学校頭取、海陸軍医総長をつとめた後、明治新政府下でも陸軍軍医総監をつ とめた重要人物。 松本良順の自伝 『蘭疇』に、内田九一が登場する。 それによると、吉雄圭斎は嘉永元年、オランダの医師モンニッキから種痘法を学んだ。しかし当時は信じ る人がなく、仕方なく自分の親戚二人(当時 4 歳の内田九一と妹の内田菊)に試みて成功した。2 人は両 親が早く亡くなり、九一は松本良順に、菊は吉雄圭斎の下に育てられた。妹の菊は後に長崎大黒町の品川 家の品川徳太に嫁いでいる。 松本良順は長崎でオランダ軍医のポンペに医学を学び、写真にも関心を持つ。この頃、ポンペや前田玄造 らに写真の実技を教えた写真家は、スイス人ピエール・ジョセフ・ロシエであった。 前田玄造は、藩主・黒田長溥から写真術の研究を命じられており、ロシエから湿板写真の実技を習得して いる。その前田玄造の技法に関心を示したのが、松本良順の下で手伝いをしていた内田九一であった。 内田九一は舎密試験所で前田玄造に、後に上野彦馬に写真術を学んだ。 慶応元年、写真業を始めるにあたって、永見伝三郎の尽力を得たとされている。 永見伝三郎(永見英昌)は、のちに第十八国立銀行初代頭取となった人物。 薩摩藩御用商人・永見伝三郎の永見家は、代々長崎会所の御用商人で資産家であり、内田九一の姉(セイ、 エイとも)は、分家で大光寺前の今籠町二十九番地で穀物問屋を営んでいた「永見榮治」に嫁いでいる。 慶応元年、上野彦馬の弟上野幸馬を連れて長崎から舟で、途中は写真を写しながら路銀を稼ぎ、まず神戸 まで来てそこで写真撮影の活動を始めたようである。 このとき、市田左右太(初代)、葛城思風、森川新七、田村景美らに写真術を教えたという。 最初、大阪石町(大阪天満)で小曾根正雄の経営する写真館で写真技師として雇われ、撮影に従事してい たという。小曾根正雄は 長崎の貿易商に小曾根家当主・小曾根乾堂の弟で、後に京都東町奉行・大久保 主膳正忠恕の家臣として幕臣に連なったが、鳥羽伏見の戦いに於いて戦死した人物。 慶応元年、大阪天満橋石町で写真業を開業、多くの志士を撮影した。 後に大阪鎗屋町(上町鎗屋町)へ移転。 慶応元年頃、元芸子の「おうた」と結婚。 慶応 2 年、江戸へ出る。 明治 2 年、石川新助の協力で横浜馬車道通で写真業を開業。 明治 2 年、東京浅草瓦町に支店(九一堂万寿)を創設。 政府高官、俳優、遊女等を撮影し、土産写真として販売も行う。 明治 4 年、横山松三郎と共に旧江戸城を撮影。 明治 4 年、明治天皇、昭憲皇后、英照皇太后を撮影し盛名を得た。 明治 5 年、明治天皇の西国巡幸に同行し各地を撮影。 明治 8 年、死去。 明治 13 年頃、内田九一の妻・おうたは、に蛎殻町の米商人・島田慶助と結婚し、門人・山際長太郎を伴 い、順慶町心斎橋東に写真業と写真材料商を兼業し「内田写真館」の名跡を継ぐ。 明治 14 年、北庭筑波が内田九一の名を残すため、浅草の旧写真館を買い取り「旧内田舎」と名付け再業。 明治 18 年、北庭筑波の「旧内田舎」廃業。 明治 22 年頃、山際長太郎の「内田写真館」廃業。 養子の内田總一は陸軍の軍馬医。

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◆歌舞伎
日本固有の演劇で、伝統芸能の一つ。重要無形文化財(1965年4月20日指定)。歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は2005年にユネスコにおいて傑作宣言され、2009年9月に無形文化遺産の代表一覧表に記載された。歌舞伎という名称の由来は、「傾く」(かたむく)の古語にあたる「傾く」(かぶく)の連用形を名詞化した「かぶき」だといわれている。戦国時代の終わり頃から江戸時代の初頭にかけて京で流行した、派手な衣装や一風変わった異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも言った。
そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」が慶長年間(1596年 – 1615年)に京で一世を風靡し、これが今日に連なる伝統芸能「かぶき」の語源となっている。
「かぶき踊り」は主に女性が踊っていた事から、「歌舞する女」の意味で「歌舞姫」、「歌舞妃」、「歌舞妓」などの表記が用いられたが、江戸を通じて主に用いられたのは「歌舞妓」であった。現在用いられる「歌舞伎」の表記も江戸時代使われない事はなかった[5]が、一般化したのは近代になってからである。
なお江戸時代「歌舞伎」という名称は俗称であり、公的には「狂言」もしくは「狂言芝居」と呼ばれていた。