【古写真の調査後売却】長州藩士・伊藤博文、山縣有朋

◆伊藤 博文
(いとう ひろぶみ、1841年10月16日〈天保12年9月2日〉- 1909年〈明治42年〉10月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。諱は博文(ひろぶみ、「ハクブン」と読むこともある)。幼名は利助(りすけ)、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔(しゅんすけ)とし、さらに春輔(しゅんすけ)と改名した。号は春畝(しゅんぽ)で、春畝公と表記されることも多い。また小田原の別邸・滄浪閣を所持していたことから滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)を称して落款としても用いた。周防国出身。長州藩の私塾である松下村塾に学び、幕末期の尊王攘夷・倒幕運動に参加。維新後は薩長の藩閥政権内で力を伸ばし、岩倉使節団の副使、参議兼工部卿、初代兵庫県知事(官選)を務め、大日本帝国憲法の起草の中心となる。初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監、元老を歴任した。内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、外交では日清戦争の勝利に伴う日清講和条約の起草・調印により朝鮮の独立を清国に認めさせた(第一条)ことが特記できる。1909年、ハルビン駅で朝鮮民族主義活動家の朝鮮人・安重根に暗殺された。

◆山縣有朋
(やまがた ありとも、常用字体: 山県有朋、1838年6月14日〈天保9年閏4月22日〉- 1922年〈大正11年〉2月1日)は、日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は元帥陸軍大将。位階勲等功級爵位は従一位大勲位功一級公爵。内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、元老、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)などを歴任した。長州藩領内の蔵元仲間[注 1]山縣三郎有稔(ありとし)の子として生まれた。幼名は辰之助、通称は小助、のちに小輔、さらに狂介と改名。明治維新後は有朋の諱を称した。高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現し、のちに奇兵隊の軍監となる。明治政府では軍政家として手腕をふるった。山県が軍部・政官界に築いた幅広い人脈は「山県系」「山県閥」などと称される。晩年も、陸軍のみならず政官界の大御所、「元老中の元老」として隠然たる影響力を保ち、「日本軍閥の祖」の異名をとった。伊藤博文と並び、明治維新期に低い出自から栄達を遂げた代表的人物である。自身が得た最高位の階級は陸軍大将だが、元帥府に列せられ元帥の称号を得ており、元帥陸軍大将と呼称された。国外でも大英帝国のメリット勲章など、勲章を多数受章している。

◆写真師・角田 吉三郎
写真材料商の桑田商会、浅沼商会に勤務し、後に東京日本橋久松町明治座裏に写真館を開業。 明治 30 年頃、人形町に絵葉書書店を開業。 明治中期頃、東京浅草の松林康平の写真版権を取得し、販売した。 大正 10 年、死去。