

◆黒田 長久
日本の鳥類学者、軍人、外務官僚。侯爵で鳥類学者だった黒田長礼の長男。母は閑院宮載仁親王二女・茂子女王。妻は海軍中将の醍醐忠重侯爵の娘・和子。黒田家19代当主である。明仁上皇ははとこに当たる。同じ鳥類学者である山階芳麿は義理の従兄弟でもある。父と同じく日本鳥学会会長を務めた。幼時より父に鳥への関心を育まれる。学習院高等科を経て、1937年、東京帝国大学理学部動物学科に入学し、鎌田武雄教授に師事する。卒業後は外務省に入るが半年で徴兵され、5年間を近衛師団で過ごし陸軍中尉となった。軍隊では伝書鳩を扱う鳩班長を務めていたという。1946年11月、GHQ水産局野生生物課長として日本に赴任した鳥類学者オリバー・ルーサー・オースティン・ジュニア(en:Oliver L. Austin)と出会い、1947年から2年半、オースティンのもとで技術顧問・通訳・翻訳者として勤務した。1951年、米軍第406医学総合研究所の鳥学課に転じ、鳥類学者マックルールのもとで、渡り鳥の持つ日本脳炎ウイルスの抗体調査をおこなう。1952年、山階鳥類研究所に入所。のち所長となる。1953年、「主として骨骼と習性分化に基く管鼻目鳥類の分類と分化」で北海道大学より理学博士を授与される。1965年4月から1967年3月まで、日本哺乳動物学会理事。横浜国立大学、広島大学、名古屋大学、北海道大学などで非常勤講師を務めた。1974年以降、身内に病気などの不幸が相次いだため、5年間休職し、看病などにあたる。1980年、山階鳥類研究所に復帰。酵素を用いた鳥の遺伝学的系統分類をおこなう。1995年同研究所から山階芳麿賞を受賞。2002年に山階鳥類研究所を退職。以後、山階鳥類研究所名誉所長。また1990年から2004年まで日本野鳥の会会長を務めた。我孫子市鳥の博物館館長も務めた。他にも、父長礼の後を継いで1978年から旧福岡・秋月藩領内の子弟の奨学団体黒田奨学会の総裁を務めている。2009年2月26日午後4時20分、急性腎不全のため死去、享年92。次男の長高(1952年生)が福岡藩黒田家第16代当主を継いだ。一女あり。如水興産株式会社代表取締役社長、公益財団法人黒田奨学会総裁。
◆黒田 長成
日本の政治家で華族(侯爵)。号は桜谷。父は筑前福岡藩の最後の藩主黒田長知。母は側室・隅田氏。妻は公爵島津忠義の娘清子。後嗣は嫡男・黒田長礼。黒田家17代目の当主である。位階は従一位、勲等勲章は勲一等旭日桐花大綬章。筑前国(現・福岡県)出身。1867年6月7日(慶応3年5月5日)、第12代福岡藩主黒田長知の長男として生まれた。幼名は幸千代。1878年(明治11年)12月28日、父長知の隠居により、12歳で黒田家家督を相続した。明治維新後、公卿・大名はすべて東京で生活するよう命じられており、長成も東京赤坂の黒田本邸に移り住んだ。1878年(明治11年)に慶應義塾へ入学。慶應義塾夜間法律科教授・金子堅太郎の助言により1880年(明治13年)に慶應義塾を中退し、英国ケンブリッジ大学への留学準備を始める。1884年に侯爵を授けられる。1885年(明治18年)、学友・添田壽一を随えてケンブリッジ大学キングス・カレッジに入学し、1887年12月学士号(普通学位)を取得し、卒業した。1889年、宮内省の式部官に任じられるが翌1890年に依願免官。1892年4月には満25歳に達したために貴族院議員となり(侯爵議員)、かつての福岡藩の藩校で旧制中学として再興された修猷館の第3代館長となる。1894年から1924年までの約30年間、貴族院副議長を務めた。1905年、副島種臣死去の後を継けて、東邦協会の会頭となった。1908年12月11日、麝香間祗候となる。1924年に枢密顧問官、議定官に任じられ、以後終生その官にあった。1939年に薨去。享年73。墓所は、東京都港区南青山の青山霊園。毎年、8月14日の命日には小田原市にある旧黒田家別邸清閑亭にて、長成侯爵を偲ぶ桜谷忌が催されている。
◆京極 高晴
豊岡京極家15代当主。1938年(昭和13年)、東京市渋谷区生まれ。1943年(昭和18年)、豊岡市に疎開。兵庫県立豊岡高等学校(1957年)、東京大学法学部(1961年)を卒業[1]。日本郵船事業部長を経て、氷川丸マリンタワー社長、関東曳船社長などを歴任。2009年6月15日から2013年1月18日まで靖国神社宮司を務めた。前任者の南部利昭に続いて神職経験のない宮司であった。日本会議の代表委員も務める。父の高光は杞陽の号を持つ俳人であり、高晴本人も俳句をたしなんでいる。
◆大原 重明
日本の雅楽家、政治家。貴族院伯爵議員。東京府で伯爵・大原重朝の三男として生まれる。学習院を経て、1907年、東京帝国大学文科大学国文科を卒業した。父の死去に伴い、1918年12月28日、伯爵を襲爵した。郢曲を綾小路有良に、箏・琵琶を豊原喜秋に、篳篥を安倍季節にそれぞれ師事した。1909年、宮内省歌御会講頌御人数に任じられ、御歌所参候、歌御会始講頌などを務め、1950年の歌会始まで披講、講頌の役をほぼ毎年担った。1922年5月、貴族院伯爵議員補欠選挙に当選し、研究会に属して活動し、1925年7月まで在任。その他、維新史料編纂会補助員、臨時帝室編修官補、大喪使祭官、皇太后大喪儀祭官副長などを務めた。
◆黒田 長義
筑前国秋月藩の第11代藩主。第10代藩主・黒田長元の六男。母は黒田長韶の娘・慈海院(慶子)。官位は従五位下、甲斐守、近江守。幼名は順丸。兄たちが他家に養子に出ていたため、父の嫡子になった。安政6年(1859年)12月1日、将軍徳川家茂に御目見した。同年12月16日、従五位下・近江守に叙任する。後に甲斐守に改める。万延元年(1860年)8月26日、父の隠居により家督を継いだ。しかし2年後の文久2年(1862年)正月26日、16歳で死去した。嗣子がなく、その死は6月5日まで隠された。跡を弟の長徳が継いだ。
◆黒田 茂子
日本の元皇族。黒田長礼侯爵夫人。閑院宮載仁親王第二王女。母は三条実美公爵令嬢・智恵子。旧名は茂子女王。94歳没。1897年(明治30年)、閑院宮載仁親王の第二王女として誕生した。1914年(大正3年)1月21日、17歳で華族・黒田長礼と結婚し、旧福岡藩主の黒田侯爵家へ臣籍降嫁した。1978年(昭和53年)4月16日に長礼が没した後、茂子は「黒田家什宝は美術工芸品であっても、郷土福岡との関連において役立てるべき歴史的文化財である」ため、それらを故郷に帰すという亡夫の遺志を継ぎ、同年9月19日に国宝・漢委奴国王印をはじめ黒田家に伝来した文化財や歴史資料を『黒田資料』として一括して福岡市へ寄贈した。『黒田資料』はその後、美術的価値の高いものが福岡市美術館に、歴史的価値の高いものが福岡市博物館に分けられて収蔵・展示されている。
◆京極高光
京極 杞陽は、東京市出身の俳人。高浜虚子に師事、「木兎」(もくと)主宰。本名は高光(たかみつ)。豊岡京極家13代当主で、少年期から壮年期までは子爵の爵位を持つ華族であった。靖国神社元宮司の京極高晴は次男である。また、五男の高幸は京極高鋭の養子となり峰山京極家を継いでいる。1908年、父京極高義、母鉚の長男として東京府東京市本所区本所亀沢町二丁目6番地(現在の東京都墨田区亀沢一丁目)で生まれる。高義の家系は京極家のうち旧但馬豊岡藩主家の系統であり、高義やその父京極高厚はともに貴族院議員を務めた子爵であった。1914年に相生町相生小学校に入学、1920年に学習院中等科に入学する。1923年、関東大震災に遭遇し、姉の智子1人を除きすべての肉親を失う。これにともない同年12月28日、子爵を襲爵する。このことが少年期に暗い影を落としたが、その一方で拘束の少ない自由な境遇をもたらした。学習院時代、文学趣味のある学友・都志見木吟によって俳句に興味を持つ。1928年、東北帝国大学文学部に進学。翌年京都帝国大学文学部に移り、1930年東京帝国大学文学部倫理科に入学する。文学に力を注ぎ、小説家の牧野信一の助言を受けつつ小説の執筆などを試みた。1933年、伯爵柳沢保承の長女昭子と結婚、のち6子をもうける。1934年、東大を卒業し、翌年より2年間ヨーロッパにて遊学する。1936年4月、渡欧中の高浜虚子を迎えるベルリン日本人会の句会に参加する。このときの入選句「美しく木の芽の如くつつましく」(『くくたち 上巻』所収)が虚子の注目を引く。これをきっかけとして、帰国後はホトトギス発行所の句会をはじめ、各所の句会に参加して俳句の研鑽を積む。1937年、宮内省に入省、式部官として勤務する。同年「ホトトギス」11月号にて「香水や時折キツとなる婦人」など3句で初巻頭を飾る。1938年、高浜年尾の「誹諧」に参加し俳諧詩を投稿する。以来、俳諧詩が俳壇から消えて以降も生涯にわたって作り続けた。1940年に推挙されて「ホトトギス」の同人となり、誌上において「静かなる美」、「皮相と内奥」など自らの俳論を発表する。同人の中では、池内友次郎、川端茅舎、中村草田男、中村汀女、深川正一郎、福田蓼汀、星野立子、松本たかしと共に九羊会に属し、虚子の指導を受けた。1944年、教育召集令状を受けて朝鮮に渡り平壌にて入隊する。1945年、父祖伝来の地である兵庫県豊岡町(現豊岡市)に帰郷し、京極家歴代当主の屋敷、亀城館に住んだ。1946年、俳誌「木兎」(もくと。由利由人が1901年に創刊)を地元の俳人の要請で復刊し、没年まで主宰する。同年に第1句集『くくたち』(上下巻)を刊行する。また、宮内省を辞して、1946年6月、貴族院議員補欠選挙で当選、貴族院子爵議員に転身し研究会に所属して活動したが、翌年5月2日には新憲法施行に伴い貴族院が廃止され議員資格を喪失した[3]。豊岡移住以降も、虚子の忠実な門人として師や同門の俳人達と行動を共にすることが多く、虚子が没するまでほぼ毎年、ともに国内各地へ旅して句作を行った。1961年には豊岡移住以降の句から虚子が選んだものを、第2句集『但馬住』として上梓する。この間、「ホトトギス」には9回巻頭に選ばれ、杞陽俳句が確立されてゆく。以降、虚子没後の喪失感の中で詠まれた第3句集『花の日に』、豊岡で詠まれた句が中心の第4句集『露地の月』などがある。1978年、阿波野青畝、中村草田男と「三人展」を開催する。1981年、心不全により死去する。翌年「木兎」終刊。遺句集として『さめぬなり』が編まれた。墓所は豊岡市三坂の旧瑞泰寺にある。
◆綾小路 護
日本の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・野宮。東京において、子爵・野宮定穀の五男として生まれ、綾小路家政の養子となる。養父の死去に伴い、1921年4月30日、子爵を襲爵した。1920年、京都帝国大学経済学部を卒業。十五銀行に入行。その後、横山工業監査、帝国鉱業開発監事などを務めた。また、歌会始講頌として披講の講頌役を務めた。1925年7月、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、大蔵省委員、税制調査会委員などを務め、1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。
◆黒田長禮
日本の華族(侯爵)、鳥類学者、政治家(貴族院議員)。日本鳥学会会長を務めたことから、「日本鳥学の父」と呼ばれた。旧筑前福岡藩黒田家当主で、黒田長政から数えて14代目に当たる。祖父は第12代福岡藩主・黒田長知。父は貴族院副議長を長く務めた侯爵・黒田長成、母は清子(公爵島津忠義の次女)である。妻は閑院宮載仁親王の第二王女の茂子。長男の長久も長じて鳥類学者となり、山階鳥類研究所所長を務めた。長女の政子は加賀前田家第17代前田利建に、次女の光子は土佐山内家第18代山内豊秋にそれぞれ嫁いだ。東京府東京市赤坂区福吉町(後の東京都港区赤坂二丁目15~23番、六丁目7番)に生まれる。自邸内に広大な日本庭園があり、植栽や鴨池があったため、幼時より鳥類、植物に親しんで育った。日本における分類生物学の草分けのひとりであり、中西悟堂、内田清之助、鷹司信輔、山階芳麿とともに日本野鳥の会の設立発起人となり会頭となる。また、渡瀬庄三郎、田子勝彌、内田清之助、小林桂助、岸田久吉とともに戦前の日本哺乳動物学会を設立する。絶滅種であるカンムリツクシガモ、ミヤコショウビンが新種として認定されたのは長礼の功績が大きい。『鳥類原色大図説 全3巻』(1933-1934)や『ジャワの鳥』(2巻 1933-1936)、 Parrots of the World in Life Colours(1975)などの30冊以上の著書があり、「ブックメーカー」と呼ばれた。『鳥類原色大図説 全3巻』は、昭和8年に宮内省が自費出版した非売品であり、名著と名高く、絵は鳥類画のパイオニア、小林重三が担当し1092種類の絵が描かれている。原画は黒田家が所有していたが、戦災で皆焼けてしまった。 山階芳麿による『日本の鳥類と其の生態』、清棲幸保による『増補改訂版・日本鳥類大図鑑全3巻、増補版1巻』と並び、日本鳥類三大図鑑と呼ばれ、大くの鳥類学者に影響を与えた。長禮は生前、「黒田家什宝は美術工芸品であっても、郷土福岡との関連において役立てるべき歴史的文化財である」との言葉を残しており、彼の没後、黒田家に伝来した宝物や美術品・歴史資料は亡夫の遺志を継いだ茂子夫人により『黒田資料』としてまとめられ、福岡市に寄贈された。『黒田資料』はその後、福岡市東区志賀島出土の『漢委奴国王印』・刀『へし切長谷部』・太刀『日光一文字』(以上3点国宝)や天下三名槍の『日本号』などのように歴史的価値の高いものは福岡市博物館へ、書画など美術的価値の高いものは福岡市美術館へ分けられて収蔵・展示されている。
◆庭田重行
位階・勲等・功級 從四位
爵位・身分・家柄 伯爵、舊公卿家
職業 陸軍歩兵少尉、掌典
生年月日 明治二十四年八月 (1891)
親名・続柄 庭田重直の長男
家族 母 長子 明元、一生、子爵綾小路護大叔母
妻 公子 明三〇、九生、子爵松平義爲妹
當家は左大臣源雅信十世の孫權中納言經資の後なり經資初めて庭田と稱し家職として神樂を掌る夫より二十二世重直に至り明治十七年伯爵を授けらる
君は先代重直の長男にして明治二十四年八月を以て生れ同三十一年襲爵す學習院を經て慶應義塾大學に學び大正四年以來歌御會講頌仰付られ大正十三年掌典に任ぜらる
弟茂俊(明二九、八生)は子爵綾小路家を相續せるも後退隱分家し從姉姶子(同一八、一一生)は男爵九條良政に嫁せり
住所 東京、四谷、荒木町二七
◆京極 高備
明治・大正期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・於菟吉。旧讃岐多度津藩主・京極高典の二男として生まれる。父の死去に伴い、1906年1月27日、子爵を襲爵した。1898年、学習院高等科を卒業し、さらに同大学部を修了した。1897年、陸軍騎兵少尉に任官し、騎兵中尉に進んだ。退役後に司法属となる。1910年10月、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1925年7月まで3期在任した。
◆京極 高修
大正・昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・秀雄。子爵・京極高徳の五男として生まれる。父の死去に伴い、1928年6月15日、子爵を襲爵した。1922年3月、京都帝国大学法学部政治学科を卒業した。1935年6月、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年5月2日の貴族院廃止まで2期在任した。
◆黒田 長和
日本の華族。男爵、貴族院議員。幼名は峯太郎。福岡藩最後の藩主・黒田長知の四男。母は側室・田代園子。異母兄に侯爵黒田長成がいる。1891年(明治24年)、断絶した黒田直方家の再興という形で分家し、1896年(明治29年)12月3日、男爵を叙爵し、同月、長和と改名した。1904年(明治37年)7月、学習院高等科を卒業し、東京帝国大学法科大学に入学した。その後、イギリス・ケンブリッジ大学に留学した。1911年(明治44年)7月、貴族院議員に当選する。妻は子爵毛利高範の娘、久子。長男は男爵・貴族院議員黒田長義。娘の定子は伯爵、伏見博英夫人。
◆建部光麿
子爵。秀隆の子。明治13年生。学習院高等科卒。会社重役。昭和6年家督を相続し爵位を継承する。
◆亀井 茲建
日本の実業家。伯爵。旧津和野藩主亀井家第15代当主。元東北開発株式会社総裁。父は伯爵亀井茲常、政治家の亀井久興は三男、亀井亜紀子は孫。
◆黒田長敬
旧秋月藩黒田家13代当主、黒田子爵家2代当主。貴族院子爵議員。初名は静男。筑前福岡藩最後の藩主黒田長知の五男。筑前秋月藩最後の藩主で子爵の黒田長徳の養子となる。1892年(明治25年)、長徳の死去により家督を継いだ。同年7月22日に長敬と改名した。1906年(明治39年)7月、学習院高等科を卒業する。その後、アメリカ・コーネル大学に留学する。帰国後、大正天皇の侍従となる。1946年(昭和21年)5月、貴族院子爵議員に補欠選挙で当選し、研究会に所属し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
◆西五辻 文仲
明治期の宮内官、政治家、奈良華族。貴族院男爵議員。旧姓・五辻、幼名・亀麿、旧名・清純。山城国京都で五辻高仲の三男として生まれる。興福寺明王院住職[1][注 2]となるが、慶応4年4月(1868年)復飾を命ぜられ、春日社新社司となる[3]。明治2年12月(1870年1月)、華族に列し西五辻家を創建した。明治3年9月22日(1870年10月16日)元服し昇殿を許された。1876年5月、永世華族となり、1884年7月8日、男爵を叙爵した。開成学校でドイツ学を修め、1873年、宮内省九等出仕となる。この年、明治天皇から下命を受け築地西洋館にて西洋料理のマナーを学び、宮中で西洋料理練習会を開催した。以後、宮中祗候、歌御会始講頌、青山御所勤務、日本大博覧会評議員などを務めた。1890年7月、貴族院男爵議員に選出され、1911年7月まで三期在任した。1933年12月11日に隠居した。
◆その他
建部純夫
亀井慈駿
森川恒
京極秀子(京極 高晴の妹)
京極多恵子
京極壽美子
京極幸子
黒田長榮(14代当主、秋月郷土館理事長)
黒田長美
黒田光子
綾小路有功
黒田康子
京極典子
亀井保子(東伏見慈洽夫人)
亀井鈴子
黒田定子(伏見博英夫人)
黒田禮子
黒田政子
大原今子(大原重明の娘)
綾小路益子
庭田長子
綾小路晨子(はやこ、石山基正三女)
毛利賢子(毛利高範の妻、近衛千代子の母)
毛利富士子
高倉永輝(高倉永則の長男、子爵・掌典)
黒田恵子
黒田久子
亀井久子(亀井茲常の妻、旧米沢藩主・上杉茂憲の五女)
大原芳子(大原重明の娘)
庭田公子
京極温子(京極高修室)
綾小路雪子(綾小路 護妻、有馬頼之長女)
黒田幸子
高倉良子
亀井修子
亀井慈勝
久野録事