【古写真関連資料】大野昌三郎と、長崎通詞・森山栄之助

moriyama

大野昌三郎
宇和島藩下級藩士。宇和島藩士・斎藤家の三男に生まれる。兄に斎藤丈蔵がいる。徒の大野家を継いだ。嘉永 4 年、分限帳に四人分(内一人分け足高)九俵と記載されている。 柔術にすぐれ、弘化2年、宇和島藩の武術大会に出場している。嘉永元年、高野長英が宇和島に来た時、谷依中・土居直三郎と共に蘭学を学ぶ。 嘉永 2 年、京都・大坂への遊学を命じられる。 長崎でオランダ通詞・森山栄之助にも学んだ。 嘉永 6 年、宇和島を訪れた大村益次郎にも学んだ。嘉永6年、村田蔵六が宇和島を訪れた際に、三瀬周三(シーボルト最後の弟子で、のち楠本イネの娘・楠本高子と結婚)とともに学んでいる。文久 3 年、脱藩(隠居)し、民間で蘭学研究に従事。 元治元年、楠本イネと楠本高子を伴って宇和島に帰郷している。慶応 3 年、独学で写真術を覚え、息子(大野悪鬼三郎・1862年生)を撮影。初期の今治吹上城の写真などが残る。明治 5 年頃、楠本イネから写真術を伝授されている。明治6年、小野義真(内務省土木頭)に招かれ、「準奏任御用掛、土木寮勤務、月俸百円」の辞令のもとに、蘭書翻訳に従事する厚遇新政府に出仕したが、間もなくして辞職し、宇和島に戻った。明治 13 年、死去。墓は宇和島の泰平寺。

◆森山 栄之助
江戸時代に活躍した日本の通詞(通訳)。文政3年(1820年)、長崎に生まれる。家は代々オランダ通詞を務めていた。英語が話せたことから、嘉永元年(1848年)、偽装漂着のアメリカ捕鯨船船員のラナルド・マクドナルドの取り調べに当たり、英語の母語話者であるマクドナルドから本格的に英語を学び、蘭・英2カ国語を使いこなせる通詞として活躍する。嘉永3年(1850年)には「エゲレス語和解」の編集に従事し、嘉永6年(1853年)のプチャーチン来航の際は川路聖謨の通詞として活躍する。また、オランダの地図に樺太の日露国境が北緯50度線となっていることを発見する。これが、日本の対露国境の根拠となる。

嘉永7年(1854年)のマシュー・ペリー来航の際も通訳を務め、その後江戸小石川に英語塾を開く。文久2年(1862年)には開港延期問題で渡欧した竹内保徳遣欧使節団の通訳としてオールコックと同船でイギリスに赴き、使節一行とロンドンで合流する。その後、各国を巡り帰国。帰国後は通弁役頭取、外国奉行支配調役などを歴任すると共に、万延元年(1860年)の大統領への英文書の作成にも活躍する。しかし、維新後は新政府に仕えることはなかった。

なお、彼の英語塾の門下生には津田仙、福地源一郎、沼間守一、須藤時一郎、富永冬樹などがいる。また福澤諭吉も短期間ではあったが学んでいる。墓所は東京都豊島区巣鴨五丁目の本妙寺。