【古写真の調査後売却】彦根藩内で撮影された与板藩家老・松下源左衛門家の侍と思われる肖像(彦根旗手町・堤写真館)

彦根藩内で撮影された与板藩家老・松下源左衛門家の人物肖像(帯刀)

彦根旗手町・堤写真館

◆彦根藩士・松下源太郎家(200石、藩主一門)
松下之綱室の兄で井伊直政の継父・松下清景を祖とする家。その後、幕府領を経て、1705年(宝永2年)に井伊直矩が2万石で封じられた。直矩は近江彦根藩井伊家(掃部頭家)から分家の直勝系井伊家(兵部少輔家)へ養子入りしたが、養父の直朝が精神疾患を理由に遠江掛川藩を改易となった後、名門井伊家への特別の計らいにより、減移封の上で直矩の相続による家名存続が許されたという事情があった。以後、与板藩は廃藩置県まで井伊家の藩主で存続した。松下無毀(俊之助)、与板藩医の孫で家老松下源左衛門などがいる。

◆与板藩
越後国三島郡(現在の新潟県長岡市与板地域周辺)に所在した藩。藩庁は与板陣屋。藩主は初め牧野家、その後幕領を経て井伊家。家格は帝鑑間詰めの譜代大名で、石高(表高)は初め1万石、1705年(宝永2年)井伊家が藩主となった際に2万石となっている。兵部少輔家は掛川時代には城主大名であったのが無城大名に降格し、参勤交代を行わない江戸定府となった。1804年(文化元年)、6代直朗は若年寄(就任:1781年 – 1812年)としての功績により城主格となり、参勤交代が認められた。それを機に与板城の建設が行われ、1823年(文政6年)、7代井伊直暉の時に完成した。なお、最後の藩主・直安も掃部頭家からの養子で、大老・井伊直弼の四男である。東京都世田谷区の豪徳寺にある裃着用の直弼の肖像画は、実子である直安が、後年記憶を頼りに描いたものである。慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いに於いてその火蓋を切った戊辰戦争は、それまで政争の中心から遠かった小藩の与板藩をも、妥協を許さぬ対立抗争へと引き込んだ。大政奉還後、井伊家宗家の彦根藩が譜代筆頭にもかかわらず新政府側に藩論を転向させたことから(井伊家は代々勤皇を是としていた点もあり)、与板藩もそれに従った。近隣の諸藩は陸奥会津藩の影響もあり、佐幕色を強めて新政府軍と戦ったが、与板藩は前記の事情から新政府軍側に就く構図となり、孤立した存在となった。また当時中立を表明していた長岡藩と接触し、藩の事情を説明していたが、その後長岡藩は一転して同盟軍に加盟している。藩主の直安は2月まで江戸藩邸に所在したが、その後国許入りする。4月に入り、新政府軍の先発隊が進出すると、直安は高田で新政府軍総督と会見し、恭順の意を示した。4月5日に新政府軍の命を受けて京都御所警備のために上洛した。4月11日には古屋佐久左衛門が率いる衝鋒隊が今井信郎を派遣して、与板藩に1万両と兵糧米500俵を要求したが、7000両余しか蓄えがない与板藩はそのほぼすべてを供出した。無一文になった与板藩は、長岡藩家老の河井継之助に泣き付いて同藩から7000両の貸付を得ている。北陸道軍が幕府領だった出雲崎に進駐すると、5月14日にはこれに応じて出雲崎口に出兵した。5月19日早朝、新政府軍は膠着した戦況を打開するために三島郡本大島村(現長岡市大島新町)から信濃川を渡河し、長岡城を急襲し落城させた。その後、奥羽越列藩同盟軍は与板城を攻撃するために、会津藩・桑名藩・上山藩兵で組織された軍を地蔵堂(燕市)・大河津(長岡市)経由で与板へ進めた。与板藩家老も藩兵を率いて進軍し、新政府軍に援軍を要請した。5月27日、与板手前の金ヶ崎で両軍が衝突。一斉射撃を掛けるが、会津藩兵の応戦に遭い退却した。5月28日早朝には援軍が到着した。軍議が開かれ、金ヶ崎へは長州・須坂藩兵を配置、塩之入峠口には薩摩・長州・飯山・戸山・与板藩兵を配置した。同盟軍の3倍の兵力である。塩之入方面では一斉射撃により善戦するが、金ヶ崎では戦況は不利となった。塩之入方面が突出すれば退路を断たれる為、新政府軍は至急退却を始めた。しかし同盟軍の勢いは強く、驚いた新政府軍は与板城に火を付け、大手門・切手門以外が焼失した。このため城下は混乱に陥った。その後も6月まで与板周辺で攻防戦が続いたが、同盟軍から与板城下を守り抜いた。近隣の三根山藩は1回目の長岡城落城後新政府軍に参加すべく、家老・神戸十郎右衛門を与板藩に送り援軍を求めた。しかし与板藩では援軍を出す余裕が全くなく、直接長岡の新政府軍との交渉を勧めたが、結局三根山藩は新政府軍と交渉出来なかった。そのため、三根山藩は奥羽越列藩同盟の一員である庄内藩軍の要求に応じ、出兵せざるを得なかった。以後庄内藩軍と行動を共にし、野積、寺泊、出雲崎と戦闘を繰り広げた。しかし、新潟・長岡が新政府軍の手に落ちると三根山藩は南北から挟撃される形となり、新政府軍に恭順の意を示した。その後は与板藩他3藩と連合して庄内への進撃を命ぜられ、一度は共に戦った庄内藩を敵に回して戦う形となった。結果として、与板藩は新政府軍の前進拠点としての役割を果たすこととなった。この戦いでの総出兵数は166名、戦死者5名、負傷者20名である。なお当時の藩士数は士族253名、卒族1203名と記録されている。明治2年(1869年)に戊辰戦争の功労を顕彰して、明治政府より賞典金2000両が給与された。同年版籍奉還が行われ、藩主直安は知藩事となり華族に列している。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により旧藩領は与板県となり、同年11月20日には柏崎県に編入、さらに1873年(明治6年)6月10日には新潟県に編入された。1884年(明治17年)、藩主家は子爵となっている。

◆彦根藩
近江国犬上郡など近江国の北部を領有した藩。藩庁は彦根城(滋賀県彦根市)に置かれた(入封当初は佐和山城)。藩主は譜代大名筆頭の井伊氏。支藩として一時、彦根新田藩があった。慶長5年(1600年)、上野高崎城主で12万石を領していた徳川四天王の1人・井伊直政が関ヶ原の戦いの戦功により18万石に加増され、石田三成の居城であった佐和山城に入封して佐和山藩を立藩した。直政は賊将・石田三成の居城を嫌い、琵琶湖の湖岸の磯山に新城建設を計画したが、建設に着手する前に戦傷が元で慶長7年(1602年)に死去した。嫡男直継(直勝)が相続すると現在彦根城が存在する彦根山に新城の建設が開始され、慶長11年(1606年)完成し彦根城に入城した。元和元年(1615年)、直継は病弱で大坂の陣に参陣出来なかったことを理由に、直勝と名を改め上野安中藩に3万石を分知され移封となった。代わって参陣し活躍した弟の直孝が藩主となった。この時点で直継の2代藩主としての履歴は抹消され、直孝を2代とした(後述)。井伊氏は元々遠江の没落した国人の家で、直政は徳川家康の信任を受けて新参ながら徳川氏の重臣の一人に列した。その過程で滅亡した武田氏の旧臣を付けられたり「(御)付人」と称される家康の命で徳川氏の旗本から直政の寄騎を経て井伊氏の家臣に編入された家臣を付けられたりと、家康の意向を反映する形で家臣団の充実が図られた。反面、初期の藩の人事は家康の許可を必要とし、付人の中には同じ徳川氏の家臣の筈の直政の家臣扱いをされることに不満を抱いて出奔する者もいた(例えば、家康から最初に直政に付けられた井伊谷三人衆の子孫はいずれも彦根藩には残らなかった)。直政が死去すると、後を継いだ直継(直勝)と付人の対立や付人同士の対立などで藩政は混乱し、家康は家臣を統制しきれない直継を当主としての器量がないと判断して病弱を名目に藩主の差替を図ったと考えられている。直孝の下で藩政の混乱は収拾され、井伊氏に残った付人は彦根藩の重臣層を形成することになる。直孝は幕閣の中枢としての活躍を認められ、元和元年・元和3年(1617年)・寛永10年(1633年)の3度にわたりそれぞれ5万石の加増がなされた。よって30万石の大封を得る大大名となった。更に天領の城付米預かりとして5万俵(知行高換算5万石)を付与され35万石の格式を得るに至った。彦根藩井伊氏は幕閣の中枢を成し、雅楽頭酒井氏・本多氏など譜代有力大名が転封を繰り返す中、一度の転封もなく石高も譜代大名中最高であった。江戸城内の伺候席は会津松平家・高松松平家と共に将軍の執務空間である「奥」に最も近く、臣下に与えられた最高の席であった「溜間」である。また、直興・直幸・直亮・直弼と4代5度(直興が2度就任。直孝・直澄が大老になったかどうかは諸説ある。詳細は大政参与の項を参照)の大老職に就いた。文字通り譜代筆頭と言えよう。歴代藩主の中で最も有名なのが、幕末に藩主となった直弼である。嘉永3年(1850年)、兄直亮の死去により藩主となった。13代将軍徳川家定の将軍継嗣問題で南紀派に属し、一橋慶喜ら一橋派と対立し徳川家茂の14代将軍就任に貢献する。安政5年(1858年)に大老に就き、勅許を得ず日米修好通商条約に調印、これを口実として詰問に出た旧一橋派要人を隠居させ、併せて言論人への死罪等を含む安政の大獄といわれる強権の発動を行った。結果、反発を招き、万延元年(1860年)に桜田門外の変で水戸藩浪士らに暗殺された。同年、藩主に就いた次男の直憲は、文久2年(1862年)に直弼の罪を問われ10万石を減封された。元治元年(1864年)、禁門の変での功により旧領のうち3万石を回復する。また天誅組の変・天狗党の乱・長州征討にも参戦し、幕府の軍事活動に協力した。しかし長州との戦いでは旧式の軍制・装備などが災いし大敗した。この時点では幕府内では旧一橋派が主導権を持っており、桜田門外の変以降の彦根藩への報われない扱いを彼らの報復と意識したことが、大政奉還以降の薩長新政府支持へ繋がったともいわれている。慶応3年(1867年)、大政奉還後は譜代筆頭にもかかわらず新政府側に藩論を転向させた。翌慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは、家老岡本半介は旧幕府軍と共に大坂城に詰めたが、藩兵の主力は東寺近くにある四塚や大津で薩長の後方支援にあたり、大垣への出兵に際しては先鋒となった。戊辰戦争では明治政府に加わって小山や本宮など各地を転戦、近藤勇の捕縛にもあたった。戦功により賞典禄2万石を朝廷から拝領している。明治4年(1871年)、廃藩置県により彦根県となった。後、長浜県・犬上県を経て滋賀県に編入された。明治17年(1884年)、井伊家は伯爵となり華族に列した。