
◆石光 真清
明治34年、予備役編入。ハルピン(ハルビン)で洗濯屋や写真館を経営。ロシア軍の御用写真師となり、満州の地理や駐留ロシア軍についての情報を集めた。
父は熊本藩士・石光真民、母は石光守家。祖父は熊本藩士・石光文平(石光真民の父)。石光真民の弟「石光豁通(野田豁通)」は15歳で同藩勘定方の野田淳平の養子となり、陸軍監督総監(陸軍主計総監)となっている。石光家は熊本藩主細川家の肥後入国時からお供をした家柄で、下級武士であったが、幕末期に100石と記載されている。実学党系士族。父の熊本藩士・石光真民は学問に熱心で、後に妻となる守家の実家の私塾で学び、19歳で塾頭になっている。のち勘定方書記として藩庁に出仕。中小姓格から産物方頭取へ昇進し、財政に大きな余裕を生み、家老の信任を得ている。
◆石光真臣
日本陸軍の軍人。陸軍中将従三位勲一等功四級。 明治3年、- 熊本県託摩郡本山村(現・熊本市中央区)に旧熊本藩士石光真民、守家の子として生まれた。
明治21年、陸軍幼年学校卒業 野戦砲兵第2連隊入隊
明治23年、陸軍士官学校卒業(1期)
明治24年、陸軍砲兵少尉
明治33年、陸軍大学校卒業(14期)
明治36年、ドイツに留学(-1904年4月) 分家して一家を創立する
明治37年、第十連隊大隊長
明治38年、旅順要塞参謀
大正5年、陸軍少将 支那駐屯軍司令官として天津に在勤
大正7年、憲兵司令官
大正8年、陸軍中将
大正9年、勲一等瑞宝章・大正三年乃至九年戦役従軍記章
大正9年、馬政局長官
大正14年、従三位
大正11、第1師団長
大正12年、関東大震災の際、帝都警備の為、東京南部警備司令官として活躍
大正14年、予備役
昭和12年、胃癌により死去 墓は東京都府中市の多磨霊園にある
◆野田 豁通
日本の武士(熊本藩士)、陸軍軍人、陸軍経理組織の創設者。最終階級は陸軍監督総監(のちの陸軍主計総監)。旧姓石光。熊本藩士石光文平の三男。藩産物方頭取石光真民の末弟。箱館戦争軍監、青森県初代知事、日清戦争の野戦監督長官、男爵、貴族院議員[1]。清浦奎吾、後藤新平、斎藤実、柴五郎などを育てた。熊本藩士石光家に生れ、15歳で同藩勘定方の野田淳平の養子となる。横井小楠を慕って京都に出奔し、勤皇党に投じ、小楠が仆れた後は同郷の先輩大田黒惟信を頼って江戸に出て倒幕運動に参画した。戊辰戦争では征討大総督軍の一員として奥羽に転戦し、箱館戦争では軍監として活躍する。軍事参謀試補、軍監、胆沢県少参事、弘前県参事と歴任。弘前県の県庁を青森に移し、青森県と改称、同県大参事。勧農寮大属。明治5年、陸軍兵学寮八等出仕、翌年8月、陸軍会計軍吏となり、以後、陸軍の経理関係の役職を担う。第5局第2課長を経て、会計軍吏正として西南戦争に出征。戦地で食料、軍夫の調達に当たった。その後、第5局第8課長、会計局計算課長、会計局次長、会計局第1課長などを歴任。1885年、ドイツ留学。帰国後は、軍の経理組織と規則を確立し、軍の経理学校を創設。会計局次長、監督長、会計局長と昇進し、初代陸軍経理局長、主計総監。日清戦争では、大本営野戦監督長官として出征した。1897年4月、監督総監に進級し、1901年4月15日、予備役に編入。1906年4月1日に後備役。1911年に退役。1895年、男爵の爵位を授爵し華族となり、1904年から1913年まで貴族院議員を務めた。
◆下村 孝太郎
日本の化学技術者。工学博士。同志社第6代社長(現総長)。父下村九十郎は熊本藩士石光文平の二男で下村家を相続した。軍人石光真清・真臣兄弟はいとこ。野田豁通は叔父。妻とくは、京都府知事北垣国道の養女。馬鈴薯王の牛島謹爾の妻(四女)、 浮田和民の先妻の末、後妻の五女, 富山薬学専門学校校長, 愛知薬学校校長の小野瓢郎の妻は孝太郎の妹である。熊本県出身。熊本洋学校と同志社英学校(現・同志社大学)に学ぶ。妹の知喜子と末子も同志社の女子部に通った。1879年父を失う。孝太郎は下村家唯一人の男子であったから、父亡き後、母と6人の妹を扶養する立場となり、学業半ばで熊本に戻った。1885年渡米し、マサチューセッツ州ウースター市(ボストン郊外)のウースター工科大学(Worcester Polytechnic Institute)で化学を専攻した。さらに、ジョンズ・ホプキンズ大学の大学院でアイラ・レムセンに師事して有機化学の研究を始めたが、新島襄から新設の理学部設立を主宰することを要請される。1890年創立の日本最初の私学の科学高等教育機関、同志社ハリス理化学校(現在の同志社大学理工学部の前身)の教頭に就任する。教頭時代にもレムセンとの研究に従事し、化学工業界での業績を残した。1896年、35歳のときに化学工業界に進出した下村は、有機化学での事業を始めるため副産物回収式コークス炉の建造に着手する。大阪舎密工業株式会社の技師長として約半年の欧米視察ののち、ベルギーのセメ・ソルベー社の方式を最良と判断したが、当時の国内の技術力では外国人技術者の手を借りる必要があった。しかし、下村は外国人を雇うなら自分は辞任する、あくまでも国産独自に建造し運転したいと社長に申し出た。それは運転開始時の不具合による爆発の恐れがあった。苦難のすえに1898年に無事に大阪舎密工業の16炉が完成し、日本で初めて下村は副産物のアンモニアから肥料用の硫酸アンモニウムの大規模な生産に成功する。1899年2月から1899年7月まで同志社臨時名誉社長、1903年10月から1906年11月まで、同志社社長を務めた。1907年から1909年には、官営八幡製鉄所の依頼で150炉の同型の炉を建造した。セメ・ソルベー炉は従来の平炉とは違い原料に圧力がかかるので、この炉さえつくれば良質のコークスが得られると下村は思ったが、硫黄分の少ない堅いコークスはできなかった。炉の構造よりも原料の良否が肝心であることを悟り、石炭の乾留による半成コークスの製法と配合により「下村式石炭低温乾留法」を確立させる。これにより第二次世界大戦後の困難な原料事情での製鉄の操業を可能にし、また液体燃料の見地から石炭低温乾留の先駆者として、海外からも注目される。1914年、第一次世界大戦が起こると、ドイツから染料輸入が途絶えることが予想されたため、国産のナフタレンを製造する方法を考え、実験を行っていた。突然爆発が起こり、両眼がほぼ失明状態となる。しかし、下村の化学の探究心は衰えず、三好久太郎とともに染料合成方法を確立し、日本最初の有機合成染料のシミア・ブラック(下村・三好の頭文字から命名)を製造した。1916年、国策の会社日本染料製造株式会社が設立されたとき、下村は技師長として就任する。さらに1923年には大阪舎密工業(現在の大阪ガス)の社長に就任した。