
◆会津八一
日本の歌人・美術史家・書家。雅号は、秋艸道人、渾斎。1951年に新潟市名誉市民。新潟県新潟市古町通五番町に生まれる。中学生の頃より『万葉集』や良寛の歌に親しんだ。1900年新潟尋常中学校(現新潟県立新潟高等学校)卒業後、東京専門学校(早稲田大学の前身校)に入学し、坪内逍遙や小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らの講義を聴講した。この頃すでに「東北日報」の俳句選者となる。1906年早稲田大学英文科卒業。卒業論文にはキーツをとりあげた。卒業後は、私立有恒学舎(現:新潟県立有恒高等学校)の英語教員となって新潟に戻り、多くの俳句・俳論を残した。1908年に最初の奈良旅行をおこなって奈良の仏教美術へ関心を持ち、またこの旅行が俳句から短歌へと移るきっかけともなった。1910年に坪内逍遙の招聘により早稲田中学校の英語教員となり上京。1913年、早稲田大学講師を兼任して英文学などを講じた。翌年小石川区高田豊川町に転居し、「秋艸堂」と名付ける。1918年、早稲田中学校の教頭に就任。1922年には東京郊外の落合村にあった親戚の別荘に転居し、やはり「秋艸堂」と名付けた。1924年、初の歌集『南京新唱』を刊行。
1925年には早稲田高等学院教授となり翌年には早稲田大学文学部講師を兼任して美術史関連の講義をおこない、研究のためにしばしば奈良へ旅行した。1931年には早稲田大学文学部教授となる。 1933年に仏教美術史研究をまとめた『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究』(東洋文庫)が刊行され、この論文で1934年に文学博士の学位を受ける。1935年、早稲田大学文学部に芸術学専攻科が設置されると同時に主任教授に就任する。1940年、歌集『鹿鳴集』を刊行。続いて1941年、書画図録『渾齋近墨』、1942年、随筆集『渾齋随筆』、1944年、歌集『山光集』をそれぞれ刊行。妥協を許さぬ人柄から孤高の学者として知られるが、同僚であった津田左右吉が右翼から攻撃された際は(いわゆる津田事件)、早大の教授たちが行動を起こさなかったのに対して、南原繁や丸山眞男らによる署名運動に参加し、津田の無実を訴えるという一面もあった。また、同じく同僚であり歌人でもある窪田空穂とは二十数年にわたって親交を結ぶ友であった。
1945年、早稲田大学教授を辞任。空襲により罹災し、秋艸堂が全焼したため新潟に帰郷。同年7月、養女きい子が病没。1946年5月、坂口献吉(坂口安吾の長兄・元新潟放送初代社長)から懇願され「夕刊ニイガタ」の社長を引き受け、新潟市内での住居を同氏に依頼していたが、当時は戦後の混乱期で住宅事情が悪く、坂口は東奔西走の末に新潟随一の大地主であった7代目伊藤文吉の持ち家である新潟別邸に白羽の矢を立てた。會津八一は伊藤文吉別邸(現、北方文化博物館新潟分館)内の洋館を「南浜・秋艸堂」と呼んで、1946年7月25日から永眠するまで暮らした。1948年、早稲田大学名誉教授。1951年、新潟市名誉市民となる。同年、『會津八一全歌集』を刊行し、読売文学賞を受けた。戦後は故郷新潟に在住。弟子の一人に歌人の吉野秀雄がいる。1953年、歌集『鹿鳴集』(1940年)にみずから注釈を加えた『自註 鹿鳴集』を新潮社より刊行。これが生前刊行された最後の専著となった。
1956年11月16日、胃潰瘍のため新潟医科大学病院に入院し、同年11月21日に冠状動脈硬化症で死去。75歳没。戒名は自選した「渾齋秋艸同人」。なお新潟県の地方紙「新潟日報」の題字は会津が揮毫したもの。他にも歌碑など会津の揮毫になるものが各地にある。
◆小川晴暘
本名は小川晴二。明治 41 年、有馬温泉で母の従弟・日野有三が営む日野写真館に暮らし、写真術を身につける。明治 43 年、画家を志し、上京。明治 44 年、写真師・丸木利陽に入門。明治天皇御真影調製係主任を務める。また、太平洋画会研究所にて洋画を学ぶ。大正 3 年、徴兵検査のため丸木写真館を辞す。丸木利陽の「陽」の字を貰うが、「暘」に変えて「晴暘」と名乗る。大正 7 年、文展(日展)洋画部に作品「雪解けの頃」で入選。 大正 7 年、大阪朝日新聞社編集局写真部に入社し、奈良に下宿生活を送る。大正 10 年、新聞社勤務の傍ら撮影した石仏の写真が会津八一の目にとまる。大正 11 年、歌人・美術史家・書家の會津八一と共に春日山の石仏群を撮影。大正 11 年、朝日新聞社を退職。大正 11 年、奈良に仏像など文化遺産の写真を専門とする飛鳥園を創業。大正 11 年、浜田青陵・天沼俊一・源豊宗など美術史・建築史研究の第一人者たちが飛鳥園を訪れる。大正 12 年、會津八一が奈良美術研究会を創立。會津八一・安藤更生・板橋倫行らと共に室生寺に赴き、一週間写真撮影を行う。大正 13 年、日本を代表する日本美術史家、文学博士源豊宗の協力を得て飛鳥園に仏教美術社を設立。また、古美術研究専門の季刊誌『仏教美術』を創刊。昭和 14 年、中国大同の雲崗石窟の撮影に出発。写真撮影のほか、拓本やスケッチも行う。昭和 16 年、東京新宿の伊勢丹百貨店で「大同雲岡写真展」を開催。昭和 34 年、奈良県文化賞受賞。昭和 35 年、死去。 美術史家・小川光暘は次男。仏像写真家・小川光三は三男で、飛鳥園を継いだ。 後に飛鳥園からは、奈良国立博物館写真室の矢沢邑一、五味義臣、京都国立博物館の金井杜道ら文化財写真家が輩出されている。