【古写真関連資料】写真師・小川晴暘が創業した、文化財専門写真館『飛鳥園』

【古写真関連資料】写真師・小川晴暘が創業した、文化財専門写真館『飛鳥園』
Wikipediaより

◆飛鳥園
奈良県奈良市登大路町にある仏像写真など文化財の撮影を専門とする写真館。1922年(大正11年) 創業。1922年(大正11年)小川晴暘 が創業。晴暘は1894年(明治27年)兵庫県姫路市生まれ。有馬温泉の日野写真館で写真術の基礎を身につけたのち、画家を志して上京。丸木利陽に入門して彼の写真館で働き、写真技術を学んだ。晴暘の号は師利陽からもらった「陽」の1字を「暘」に改めたもの。1918年(大正7年)文展に《雪解けの頃》で初入選するも、大阪朝日新聞社に写真部員として入社し、奈良に下宿。奈良で撮っていた石仏の写真が、會津八一の目に止まり、八一の勧めを受けて新聞社を退社し、飛鳥園を創業した。晴暘のあとは晴暘の三男小川光三が継いでいる。後に奈良国立博物館写真室の矢沢邑一、五味義臣、京都国立博物館の金井杜道ら文化財写真家が輩出し、現在も若松保広が所属している。1968年(昭和43年)株式会社飛鳥園を設立。晴暘は八一のほか、志賀直哉・武者小路実篤らとも親交があり、現在でも飛鳥園撮影の写真は多くの書籍・写真集・図録等に掲載されている。2001年(平成13年)には飛鳥園の写真を一般公開するため仏像写真ギャラリーがオープンした。平成29年、小川晴暘が生前、朝鮮半島で撮影した写真の原版が飛鳥園で発見された。

小川晴暘
本名は小川晴二。明治 41 年、有馬温泉で母の従弟・日野有三が営む日野写真館に暮らし、写真術を身につける。明治 43 年、画家を志し、上京。明治 44 年、写真師・丸木利陽に入門。明治天皇御真影調製係主任を務める。また、太平洋画会研究所にて洋画を学ぶ。大正 3 年、徴兵検査のため丸木写真館を辞す。丸木利陽の「陽」の字を貰うが、「暘」に変えて「晴暘」と名乗る。大正 7 年、文展(日展)洋画部に作品「雪解けの頃」で入選。 大正 7 年、大阪朝日新聞社編集局写真部に入社し、奈良に下宿生活を送る。大正 10 年、新聞社勤務の傍ら撮影した石仏の写真が会津八一の目にとまる。大正 11 年、歌人・美術史家・書家の會津八一と共に春日山の石仏群を撮影。大正 11 年、朝日新聞社を退職。大正 11 年、奈良に仏像など文化遺産の写真を専門とする飛鳥園を創業。大正 11 年、浜田青陵・天沼俊一・源豊宗など美術史・建築史研究の第一人者たちが飛鳥園を訪れる。大正 12 年、會津八一が奈良美術研究会を創立。會津八一・安藤更生・板橋倫行らと共に室生寺に赴き、一週間写真撮影を行う。大正 13 年、日本を代表する日本美術史家、文学博士源豊宗の協力を得て飛鳥園に仏教美術社を設立。また、古美術研究専門の季刊誌『仏教美術』を創刊。昭和 14 年、中国大同の雲崗石窟の撮影に出発。写真撮影のほか、拓本やスケッチも行う。昭和 16 年、東京新宿の伊勢丹百貨店で「大同雲岡写真展」を開催。昭和 34 年、奈良県文化賞受賞。昭和 35 年、死去。 美術史家・小川光暘は次男。仏像写真家・小川光三は三男で、飛鳥園を継いだ。 後に飛鳥園からは、奈良国立博物館写真室の矢沢邑一、五味義臣、京都国立博物館の金井杜道ら文化財写真家が輩出されている。