【古写真関連資料】写真師・山本五郎とその家系(中納言大江貞奥、山本悍右、山本勘助)

山本 五郎
山本五郎

◆写真師・山本五郎
妻は山本通。山本家の先祖は、平安時代の貴族・大江音人を祖とする大江氏にある。 直系の先祖は、1332 年に後醍醐天皇の倒幕隠謀が露顕し隠岐島に流された時、美濃岐礼庄に配流された中納言大江貞奥(初代)で、子孫が山本と称した。 その子、山本判官桜待中納言大江貞元は「太平記」の吉野の戦いに記述がある。 山本五郎(貞真)は貞奥より数えて本家 24 代目。父は23代・山本久吉(貞路)。25代の長男は写真家の山本悍右(貞諷)。明治 38 年、名古屋広小路に写真機械店、写真館「山本五郎商店」を開業。 明治 40 年、横浜美術写真館サスライズ商会で写真撮影。 明治 45 年、日高長太郎、佐野紫影らと愛友写真倶楽部を結成。のち代表。 昭和 13 年、死去。

◆大江貞奥(初代)
伝承によると因幡守大江広元の末孫。官位は正三位。大江氏は大江音人を祖とする。1332年、後醍醐天皇が隠岐島に流されたとき、供奉の公卿16人が雲州大社より諸国へ配流のうち美濃国へ3人、中納言大江貞奥は同国岐礼庄(現在の岐阜県揖斐川町)に流され同地白谷に居住、建武元年に死去した。同年、貞奥卿を祭神とする白倉神社が建立された。美濃明細記に「大野郡岐礼村白倉神社山本中納言藤原貞奥霊神後醍醐天皇奉移隠岐国時岐礼配流建武元年薨山本判官貞元称桜待中納言子孫美濃有称山本云々」とある。後醍醐天皇は隠岐島より脱出後、流人16人を召し返され嫡男判官貞元が参勤した。八代元右衛門貞時、足利義満の命を受け数度の合戦にて功を立て、革手合戦の恩賞により岐礼庄六百貫を賜り応永10年(1403)白倉明神を大社に再建した。武田信玄の軍師山本勘助は、貞奥より11代末孫で美濃守土岐頼芸の近習であった山本数馬貞正の弟で、一時川牛の城主不破河内守の養子となった山本小次郎貞光の子であるとの伝承がある。

◆系譜
初代:山本中納言大江貞奥 – 2代:山本桜待中納言貞元 – 3代:貞行 – 4代:貞房 – 5代:貞常 – 6代:貞安 – 7代:貞純 – 8代:貞時 – 9代:貞光 – 10代:貞直 = 11代:数馬貞正 – 12代:貞久 – 13代:重貞 – 14代:貞宅 – 15代:貞継 – 16代:貞昌 – 17代:治五右衛門貞宅 – 18代:作兵衛貞重 – 19代:五左衛門貞時 – 20代:五左衛門貞栄 – 21代:五左衛門貞篤 – 22代:五左衛門貞陳 = 23代:久吉貞路 – 24代: 山本五郎貞真 – 25代:悍右

◆山本悍右(25代)
日本の写真家、詩人。日本におけるシュルレアリスムを代表する草分け的存在である。愛知県名古屋市栄区鉄砲町(現・中区栄)生まれ。本名、勘助。明治45年(1912年)の愛友写真倶楽部創立会員で代表であった山本五郎(1880年-1941年)の長男。実家、山本五郎商店は名古屋広小路で写真機械店と写真館を営んでいた。昭和初期『詩と詩論』、『cine´』(シネ)を通してシュルレアリスムを知り、15歳頃より作詩を始める。名古屋第二商業学校卒業後上京、アテネ・フランセでフランス語を学んだ。治安維持法下の東京で左翼思想に触れ、以後革命にほのかな夢を抱くようになる。明治大学を中退、名古屋に戻り、1931年、17歳の時、新興写真グループ「独立写真研究会」の結成に参加、会誌『独立』に作品を発表、早熟な才能を発揮していった。1932年4月、『独立』B・2号に発表された“或る人間の思想の発展 靄と寝室”(現・名古屋市美術館蔵)は山本悍右の発表された作品として現存する最も古い作品である。1938年、「青憧社」を結成し、会報『CARNET BLEU』を編輯、発行。戦時下、国策により出版物が日本名に改称させられて行く中、1942年8月、第5号(終刊)までタイトルにはフランス語を使用、刊行した。1936年、名前を悍右とする。1938年、『夜の噴水』を編輯、刊行。 官憲の圧力により1939年10月、4号で終刊となる。1939年には、山中散生、下郷羊雄、坂田稔らとナゴヤ・フォトアバンガルドを結成。1939年より、北園克衛の「VOU」会員となり1978年の解散まで『VOU』誌上、「形象展」に作品を発表した。戦前から「哲学会」会員であった山本は1940年『フォトタイムス』7月号に当時の国家権力による言論、思想弾圧を描いた作品3点を発表し、それに「牢獄の暗い石壁のなかにも自由があるように」と書き添えている。掲載作品“伽藍の鳥籠”[脚注 2] の伽藍は権威、鳥籠は牢獄、電話機は言論であることが読み取れる。戦後も「VIVI」(1948-1950)、「美術文化協会写真部」(1949-1954)、「窓」(1953-1958)、「炎」(1955-1961)、「日本主観主義写真連盟」(1956)、「ESPACE」(1956-1958)、「アルキシネ」(1958)、「前衛詩人協会」(1958)、「ナゴヤファイブ」(1963-1964)を結成。戦前から戦後の半世紀以上におよぶ長い期間を一貫して前衛写真家・詩人として活躍、その写真作品は自由、反戦、反権力を軸としたシュルレアリスム系の華麗な作品が多い。1965年頃より中部学生写真連盟顧問として10年間程後進の指導にあたった。1987年名古屋市にて肺がんで死去、生前の意志により名古屋大学医学部に献体され医学の進歩のために提供された。

◆山本勘助
山本勘助に関する伝承の記載がある資材と人名事典による記事内容が甚だよく似ていることから、武将の山本勘助晴幸が山本中納言大江貞奥の後裔であることは史実に近いと言われている。『甲陽軍鑑』においては名を勘助、諱を晴幸、出家後道鬼を称したという。勘助の諱・出家号については文書上からは確認されていなかったが、近年、沼津山本家文書「御証文之覚」「道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」により、江戸時代段階で山本菅助子孫が諱を「晴幸」、出家号を「道鬼」と認識していたことは確認された。ただし「晴幸」の諱については、明治25年(1892年)に星野恒が「武田晴信(信玄)が家臣に対し室町将軍足利義晴の偏諱である「晴」字を与えることは社会通念上ありえなかった」とも指摘している。『甲陽軍鑑』巻九では天文16年に武田晴信が『甲州法度之次第』を定めた際に勘助の年齢を55歳としており、これに従うと生年は明応2年(1493年)となる。一方、『甲陽軍鑑』末書下巻下の「山本勘介うハさ。五ヶ条之事」によれば、勘助の生年を明応9年(1500年)としている。「五ヶ条之事」では勘助が本国を出て武者修行を行い、駿河で滞在し今川家に仕官を望み、甲斐へ移り武田家に仕官し、出家し川中島の戦いで戦死する一連の履歴の年齢を記しているが、これには矛盾が存在していることが指摘される。生年には、文亀元年(1501年)説もある。『甲陽軍鑑』によれば、没年は永禄4年( 1561年)9月10日の川中島の戦いで討死したとされる。近世には武田二十四将に含められ、武田の五名臣の一人にも数えられて、武田信玄の伝説的軍師としての人物像が講談などで一般的となっているが、「山本勘助」という人物は『甲陽軍鑑』やその影響下を受けた近世の編纂物以外の確実性の高い史料では一切存在が確認されていないために、その実在について長年疑問視されていた。しかし近年は「山本勘助」と比定できると指摘される「山本菅助」の存在が複数の史料で確認されている。