
◆上野英智
上野家の祖。佐賀鍋島家に仕えていた。文禄・慶長の役に鍋島直茂に従軍し、戦功があったが、陣没したという。
◆上野若元(山本若麟の父)
江戸時代中期の画家。長崎漢画派のひとり。佐賀藩鍋島綱茂の側近として仕えていた。藩主が没すると画家と製鐔(刀鍔製作)を生業とした。旧姓を小川。名は道英、字は蘭栄、癡翁・崋山と号した。河村若元とも称する。山本若麟は実子。学問を好み、特に歴史に通じていた。河村若芝に逸然伝授の北宗画風の漢画と木庵伝授の鍔細工の技法を学ぶ。鍔に崋山若芝と記名したので師の若芝と混同されやすい。
長崎漢画派とは、唐絵と呼ばれ、主に明清画の影響が色濃い。宋元代の絵画様式を模倣した、室町時代の水墨画とは別系統の漢画である。 1642年(正保2年)に来日した黄檗僧逸然性融は、長崎漢画の祖と呼ばれ、羅漢・達磨・布袋像などの道釈人物画を多く描いた。逸然以前にも范道生・陳璜・陳玄興といった渡来画人が作画している。また陳賢の道釈人物図が、渡来僧によって幾たびか持ち込まれた。逸然の門弟に河村若芝・渡辺秀石などが育ち、北宗画風の漢画を善くした。逸然のほかにも絵画をたしなむ黄檗僧は多く、この画派は長崎派の主流とされる。河村若芝は一家をなし、門下に上野若元・山本若麟・牛島若融らがつらなり幕末まで続いた。
◆山本若麟(上野若瑞の父)
江戸時代中期・後期の絵師。長崎漢画派のひとり。名は長昭、字は蘭栄、通称は丹次郎。若麟・瑞翁・温故斎・魯石・長英などと号した。河村若元の長男で、芦塚若鳳は弟。父に画を学び、とりわけ虎の図を得意とした。唐館公用支配人を務めた。息子の牛島若融、上野若瑞も絵師。若瑞の子に上野若龍がおり、その次男が日本最初期の写真家・上野彦馬である。
◆上野若瑞(上野俊之丞の父)
長崎漢画派。山本若麟の息子。兄弟に牛島若融。
◆上野俊之丞 (上野彦馬の父)
名は上野常足。画人(長崎漢画派)としての号は上野若龍。祖父は長崎漢画派の絵師・山本若麟。父は山本若麟の息子で門人の上野若瑞 。文政 5 年、長崎の御用時計師の家柄である幸野家を継いだ。天保 10 年、上野姓に戻った。御用時計師として幸野俊之丞とも名乗っている。 上野家は、代々長崎の商家で時計や薬品の製造・販売を業としていた。家紋は桔梗の二引。 武雄領主鍋島茂義の、貿易港長崎での買い物帳「長崎方控」にも名前が登場する。 広瀬淡窓(私塾・咸宜園)に漢学、蘭学を学び科学者として天文や、チリ、化学を研究し、鋳金や鍛金、火薬などを製造。 時計師、硝医師の製造などを業として長崎奉行の用命を受ける。 天保年間、荘園の製造を計画し、薩摩藩からの援助で長崎・中島川のほとりに精錬所を設立。オランダ商館にも出入りを許される。天保 14 年、長崎に届いたダゲレオタイプ写真機を目にする。この時に記録したとされる写真機の寸法を付したスケッチが現存する。嘉永元年、ダゲレオタイプを入手。これが日本最初の写真機伝来とされる。島津斉彬の手に渡り、薩摩藩における写真術の研究を進展させることになった。嘉永 4 年、死去。上野彦馬、上野幸馬は息子。
◆上野彦馬
父は上野俊之丞、弟は上野幸馬。 号は季渓。 嘉永 4 年、父・上野俊之丞が他界し、幼くして蘭学、化学を学び、染色、時計、砲術、写真術を研究。 大分・日田の儒学者で、教育者、漢詩人でもあった広瀬淡窓の塾「咸宜園」(文化 2 年に創立された全寮 制の私塾)に入門し 3 年間学び、長崎に戻る。 その後、蘭通詞・名村八右衛門からオランダ語を習う。 安政 5 年、オランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトを教師とする医学伝習所内に新設された 舎密試験所で舎密学を学び、湿板写真術に関心を持つ。 津藩士・堀江鍬次郎らと共に蘭書を頼りに写真技術を習得し、感光剤の化学薬品の自製に成功するなど、 化学的に写真術の研究を深める。 安政 6 年、フランスの写真家ロシエにより写真術を習得。 安政 6 年、今井貞吉が藩命により長崎で貿易について調査を行った際に上野彦馬に写真術を教わっている。 万延元年頃、高山一之は江戸に出て上野彦馬に写真を学んだといわれる。 文久 2 年、故郷の長崎に戻り中島河畔で「上野撮影局」を開業した。 文久 2 年、中島寛道が化学と写真術を学んでいる。 文久 2 年(3 年とも)、守田来蔵が門下として写真術の教えを受けている。元治元年、富重利平が写真術の教えを受けている。 慶応元年、溝渕広之丞(土佐藩士)らと長崎遊学を命じられ、化学を学ぶ。 慶応元年、長崎で中浜万次郎らが上野彦馬の撮影所に出入りし、井上俊三に写真修業をさせている。 慶応 2 年、井上俊三が藩費により上野彦馬撮影局の機材を三百両で買い上げる。 慶応 3 年、坂本龍馬の立像を上野彦馬スタジオで撮影されており、坂本龍馬は井上俊三、後藤象二郎は上 野彦馬の撮影とされる。ほか、高杉晋作などの志士や明治の高官、名士の肖像写真を多く撮影。 幕末期に松林一十が長崎の佐賀藩屋敷に出役中、上野彦馬から写真術の教えを受けている。 明治 5 年、植松柳谷に「安吉秘伝」を伝えている。 明治 7 年、金星の太陽面通過の観測写真を撮影し、これが日本初の天体写真となった。 明治 10 年、西南戦争の戦跡を撮影し、これが日本初の戦跡写真となった。 同年、第 1 回内国勧業博覧会で鳳紋褒賞を受賞。 明治 23 年頃、磯長海洲が上野彦馬の写真館(上海支店)で 3 年間写真撮影に従事している。ウラジオストク、上海、香港など海外に支店を持ち、後進の指導にもあたった。 上野彦馬の妹(コノ)の婿養子、上野才蔵(大分日出町生まれ、本名は泉)は、香港支店長になっている。明治 37 年、長崎で死去。上野彦馬の長男(上野陽一郎)、次男(上野秀次郎)は、上野彦馬の没後に千馬町に兄弟で開業したが、間もなくして閉鎖した。
◆上野幸馬(上野彦馬の弟)
父は上野俊之丞、兄は上野彦馬。上野左次馬、上野京馬と記載された資料も存在する。 原書の独学により新コロジオン法を会得。調剤の技術が高く、多くの同業者が技法を聞きに来た。 慶応元年、内田九一は上野幸馬を連れて長崎から舟で、写真撮影しながら旅費を稼ぎ、まず神戸で写真撮影の活動を始めた。このとき、市田左右太(初代)、葛城思風、森川新七、田村景美等に写真術を教えた という。 明治初め、神戸の福原遊郭に店を開く。明治初年、東京の築地本願寺正門前(現在の築地本願寺正門の位置とは異なる)で写真館を開業。 明治 4 年、片山精三が写真術の教えを受けている。 明治 5 年、「全国写真師見立番付」で「築地 上野京馬」として記載されている。 明治 7 年、大阪神戸間の鉄道開設のため、遊郭が湊川付近に移転したため、神戸の店舗を閉店。 その帰り途中、各地の同業者に技術指導をおこない、歓迎されたという。 明治 9 年、東京・築地に写真場「幸謙社」を開業。写真業の傍ら、宮内省の御時計技師も務めた。 官僚であった前島密の写真なども起こっている。 息子に産業能率大学創設者・上野陽一。 明治 29 年、死去。
◆上野陽一郎 、上野秀次郎
上野彦馬の長男(上野陽一郎)、次男(上野秀次郎)は、上野彦馬の没後に長崎千馬町に兄弟で開業したが、間もなくして閉鎖した。上野彦馬の撮影した「上野陽一郎・上野たけ夫妻像」「上野秀次郎・上野ひで夫妻像」が長崎県美術館に残されている。大正4年1月の『人事興信録』によると、上野陽一郞の妹「上野シカ(明治6年生)」は、長崎市西濱町の豪商・松江梅吉に嫁いでいる。
◆上野才蔵
本名は泉才蔵。上野彦馬の妹(コノ)の婿養子。 上野写真館で香港支店長になっている。