【古写真関連資料】眼鏡商と、幕末明治の写真師たち

【古写真関連資料】幕末明治の写真師と、眼鏡商

日本に眼鏡を伝えたのは、宣教師フランシスコ・ザビエルで、周防国の守護大名・大内義隆に謁見した際に献上したのが最初といわれている。ただし、これは現存しておらず、現物で残っている日本最古の眼鏡は、室町幕府第12代将軍の足利義晴が所持していたと伝わるものがある。一説には、義隆の物より、義晴が所持していたものの方が古いとも言われる。また徳川家康が使用したと伝わる眼鏡も久能山東照宮に現存している。日本でも、眼鏡はやがて国内で作られるようになり、江戸時代の半ばほどにもなると、江戸や大阪の大都市では、眼鏡を販売する店が出るようになった。同時に日本独自の改良も施されるようになり、中でもメガネの鼻パッドは日本独自の発明であるとされる。

玉屋松五郎
本名は朝倉松五郎。幕末から明治時代の技術者。機械式レンズ製造技術をまなび、帰国後レンズの製作を行う玉工師であった。幕末期、中島待乳は京橋区竹川町・玉屋松五郎にレンズ研磨法を学んでいる。
明治5年、中島待乳は玉屋に身を寄せ、レンズや写真機の製造、写真撮影をおこなっていた。
明治5年、竹川町は大火に遭い焼失。中島待乳は玉屋とともに芝区日蔭町に移転。
明治6年、官命によりウィーン万国博覧会に参加。
小島喜三郎江崎礼二も学んでいる。

◆写真師・味田 孫兵衛
名古屋で表具師や指物師に師事し、故郷の地名「牧田屋」を屋号に眼鏡商、写真材料商として開業。 安政年間、学んだ技術を応用して国産最初期のカメラ「堆朱カメラ」を販売目的で製造。 明治 18 年、死去。

◆写真師・ 中島 待乳
本名は中島精一。幼名は中島助次郎。 中島清兵衛の二男として生まれる。 文久年間、オランダ船が漂着した際、乗組員の懐中時計に貼られた写真を見て、興味を持った。 元治元年、父により丁稚奉公のため江戸に連れ出されたが、拒んで帰郷した。 慶応 3 年、南画家・中林湘雲が銚子に来訪した際入門し、江戸に出た。 日本橋区本町穂積屋・清水卯三郎から漢訳の写真書を入手。 福地源一郎にレンズ製造法を教わり、漢訳の写真書を翻訳してもらう。 また京橋区竹川町の眼鏡商・玉屋松五郎にレンズ研磨法(構成法)を学んだ。 明治元年、吉原で試験撮影を開始。 明治元年、火事により機材が全焼。 明治元年、横山松三郎に師事し、修正術・採光法を学んだ。 なお、待乳の号は横山松三郎が浅草名勝待乳山に因んで付けたとされる。 明治 5 年、陸軍省や山城屋に勤めた後、玉屋に住み込み、レンズ・写真機の自作に成功。 明治 6 年、玉屋松五郎が死去。 明治 7 年、浅草区材木町に写真館待乳園を開業。 明治 9 年、横浜から浅草に移っていた下岡蓮杖のもとを訪れている。下岡蓮杖は横浜で使っていた写真機などを中島待乳に与えたという。 明治 10 年頃、幻灯機の製造を試み、手品師・帰天斎正一等から注文を受けた。 明治 10 年、第一内国勧業博覧会で褒賞受賞。 明治 13 年、秋尾園と結婚。 明治 13 年、教育博物館長・手島精一が師範学校等の教材として幻灯の導入を推進。 その際、鶴淵初蔵と共に製造を請け負う。 明治 14 年、第二回内国勧業博覧会では人像カーボン印画を出品し有効賞。 明治 19 年、幻灯機の改良を重ね、ライムライトを用いた「水酸瓦斯機械」を発明。 また、画家の妻・松尾園とともに種板の制作に力を入れた。明治 21 年、甥の宮内幸太郎が上京して中島待乳に写真を学んでいる。明治 23 年、第三回内国勧業博覧会では写真及幻燈器、幻燈映画等一式を出品し有効賞。 明治 27 年、日本橋区呉服町一丁目 1 番地に移転。 明治 40 年、第六回内国勧業博覧会審査員。 明治 44 年、全国写真大会発起人総代。東京写真師組合顧問役。 晩年は牛込区弁天町に住んだ。 昭和 13 年死去。多磨霊園に葬られた。 甥・秋尾勲(秋尾新六の次男、のち中島待乳の養子)は、陸軍工兵大尉として航空写真に従事していた。

◆写真師・ 藤田 要冶
はじめ眼鏡商であったが、写真技術を研究した。 明治 9 年、長岡横町上田屋の 2 階を借りて写真業を開く。 明治 13 年、死去。 養子の藤田房太郎が継いだ。

◆写真師・ 宮沢 喜太郎
明治 38 年頃、横浜・相生町で写真機材と双眼鏡の販売、写真製造の店を経営。

◆写真師・ 江崎 礼二
江崎村の豪商・塩谷家に生まれる。 幼いうちに両親を失い、叔父の塩谷宇平に養われ、農作業を手伝っていた。 文久 3 年、同郷の写真史研究者・久世治作の家(美濃中川村の庄屋)に出入りするようになり、1 枚の写真を見せられ、写真師を目指す。 久世治作は、化学者で官吏。飯沼慾斎に写真技術を、辻礼助に化学を学んでおり、のち大垣藩士、造幣局判事となった人物。 なお、大垣藩に写真技術がもたらされた経緯は、万延年間に同藩藩士の蘭学者・飯沼慾齋が長崎から持ち帰り、藩主・戸田氏政に献上したことによる。また、嘉永6年には、前年のペリー艦隊(下田)に同行していた写真家・エリファレット・ブラウン・ジュニアによりもたらされた写真技術を、大垣藩人夫頭・久世喜弘(久世治作)が現地から大垣に伝えている。明治 3 年、同郷の権大参事・小野崎五右衛門蔵男に従って東京へ出て、書生として勤めた。 この時に本姓・塩屋から江崎と名を改めた。なお、小野崎五右衛門蔵男の子・小野崎 一徳は、のちに写真師となっている。明治9年、小野崎蔵男は、江崎礼二の成功と写真術の将来性を見込み、当時藩校生徒であった小野崎一徳を江崎写真館の門下生として送った。のち長男・小野崎一男も江崎の門下生としているが大正10年に夭折。次男・小野崎嶺が継いでいる。小野崎嶺の長男・小野崎勲は江崎写真館に従弟として住み込んで写真術を収得しているが、太平洋戦争にて戦死。小野崎嶺の次男・小野崎雅夫が継いでいる。小野崎雅夫は江崎写真館の二代目・江崎三郎に師事。洋学者・柳川春三の『写真鏡図説』を購入、さらに眼鏡店(京橋竹川町・玉屋松五郎)でレンズを購入、写真術 を独習した。 明治 4 年、下岡蓮杖上野彦馬に師事して独習によって生じた疑問点を解消。 明治 4 年、東京芝日陰町に間借りで写真スタジオを開業。 明治 5 年(6 年とも)、浅草奥山に移った。 明治15年、開発されたばかりの乾板写真技術をイギリスから輸入し日本に定着させた。 明治16年、飛んでいる鳩や隅田川における海軍水雷爆破の瞬間、短艇競争の様子をスワン乾板で撮影し、早取写真師として著名となった。 明治16年、江崎の写真技術に注目した古河市兵衛は、足尾銅山の近代化の状況記録を依頼し、門下の小野崎一徳を指名している。明治 17 年、成島柳北の葬儀を撮影。 明治 18 年、打上花火を撮影。 明治 18 年、鹿島清兵衛は写真師・江崎礼二に写真術の手ほどきを依頼している。 明治20年、夜間撮影を成功。 鹿島清兵衛は江崎礼二の助手であった今津政二郎から写真術を学んだという。 明治 23 年、軽気球乗りを撮影。 明治 26 年、幼児 1700 人のコラージュ写真を製作する等した。 明治 31 年、東京市会議員・市参事会員に選出。 議員時代に東京における高層建築物の先駆けである浅草凌雲閣を発案。 明治 43 年(明治 42 年とも)、死去。五男の江崎三郎が二代目として継承。江崎清は長男。江崎礼忠は養子。四男の江崎岩吉は海軍技術中将。

◆写真師・ 福永 義一
宮崎出身。号は福永陽州。台湾から沖縄に渡ってきたという。
明治33年、沖縄那覇でペンキ看板製造の傍ら、「のぞき眼鏡興行」「公正会影劇部」と称して幻燈写真の興行を行っていた。明治33年、福永写真部を開業。明治35年、大阪の支那料理屋から清国人の料理人を呼び、那覇警察署近くに「支那そばや(観海楼)」を開業。これが「沖縄そば」店の発祥となる。当時は「唐人そば」と銘打っていた。明治36年、催眠術治療「福永救済館」開業。明治38年頃、奄美大島名瀬入舟町16に福永写真館を移転開業。奄美大島でも幻燈写真の興行を行っていた。この頃、醤油製造、養豚なども行っていたという。明治42年、奄美大島初の新聞『大島新報』を発行。大正15年(昭和元年)、死去。大島紬の染色原料ティーチ木裁断機の発明をしており、試運転の際に袴が機械のベルトに巻き込まれる事故であった。昭和5年頃まで営業していた形跡があるため、門人の河村武成(名瀬市朝戸在住)が運営していたと思われる。