
本名は朝倉松五郎。幕末から明治時代の技術者。機械式レンズ製造技術をまなび、帰国後レンズの製作を行う玉工師であった。幕末期、中島待乳は京橋区竹川町・玉屋松五郎にレンズ研磨法を学んでいる。
明治5年、中島待乳は玉屋に身を寄せ、レンズや写真機の製造、写真撮影をおこなっていた。
明治5年、竹川町は大火に遭い焼失。中島待乳は玉屋とともに芝区日蔭町に移転。
明治6年、官命によりウィーン万国博覧会に参加。
小島喜三郎、江崎礼二も学んでいる。
生年/出身: 東京
開業年:
開業地、主要拠点: 東京
師匠: