
◆蜷川 式胤
明治初期の官僚、古美術研究家。博物館の開設に尽力し、また、日本の陶器を海外に紹介した。子賢の長男として京都に生まれた。幼名与三郎、また親胤。祖先は丹波船井郡高屋村(現在の京都府船井郡京丹波町富田)の代官であったが、加勢した明智光秀の敗亡のため、京都に移って東寺の客(公人)となり、代々、境内東北隅の屋敷に住んだ。父に学び、また、若い頃から古美術を研究し、すでに1858年(安政4年)、正倉院の宝物模写図に奥書を残している。1869年(明治2年)(35歳)7月、東京丸の内道三丁(現在の千代田区大手町2丁目)に家を与えられ、次の職歴を経た。
1869年7月、太政官制度取調御用掛、権少史から少史へ進み、従7位。
1871年、少史が廃官となり、外務省の外務大録として編輯課御用書類下調掛。
1872年、文部省博物局御用兼務を兼務して、八等出仕。
1875年、内務省博物館掛。
1877年、1月、病を理由に退職。
1869年 – 1871年、民法編纂の会議に列して、フランス民法典の翻訳に協同した。海軍の軍艦旗と短剣、陸海軍の軍服の制定に関係した。 1871年、2月、太政官に許可を願い、3月、写真師横山松三郎・洋画家高橋由一と、『旧江戸城写真帖』を作った。常設の博物館を上野と芝に開設するよう、町田久成らと建議した。5月、田中芳男らと九段坂上で物産会を開いた。10月の京都博覧会の開催に尽力した。岩倉使節団のための、書類の準備に携わった。1872年、3月 – 4月一杯、町田久成、当時オーストリア=ハンガリー帝国公使館勤めのハインリヒ・フォン・シーボルトらと湯島聖堂大成殿で、文部省博物局主催の日本初の博覧会を開いた。東京国立博物館の始まりとされている。これは翌年のウィーン万国博覧会の準備でもあった。5月から10月まで、(太政官の前年5月の布告『古器旧物保存方』に基づき)、町田久成に従い、高橋由一・横山松三郎らと、伊勢・名古屋・奈良・京都の古社寺や華族の宝物を調査し、さらに正倉院の調査を行った。『壬申検査』と呼ばれる。この調査のうちの正倉院開封の状況を、日記『奈良の筋道』に残した。1875年、4月1日からの奈良博覧会に出展のため、再び正倉院へ出張した。道三町の自宅には多くの陶器を所蔵した。退職前の1876年1月、屋敷の一部を出版所『楽古舎』に改め、川端玉章、高橋由一らを雇い、『観古図説陶器之部』の第1 – 第5冊を、1876年から1878年にかけて刊行し、さらに1869年秋、関西へ調査の旅をした上で、第6冊を1879年に、第7冊を1880年に刊行した。石版刷りに彩色を施した画集である。京都玄々堂の松田敦朝が刷った。仏文あるいは英文の解説も付けられ、殆どが輸出され、海外コレクターの指標になった。『楽古舎』では、同好を集めて古陶器の「当てっこ」もした。ハインリヒ・フォン・シーボルトやエドワード・S・モースも訪れた。式胤は1879年初から、モースと繁く交わって日本の陶器の鑑識について教え、1000点以上と推測される古陶器を、贈り、或いは共に町に出て集めた。今日ボストン美術館が所蔵する『モース日本陶器コレクション』の発祥である。またシーボルトの帰国前に自著を含む少なくとも5冊の書物をおくり、これらは現在ケンブリッジ大学図書館に所蔵されている。1882年(明治15年)8月21日、没した。享年47。谷中の葬儀に参列したモースは、死因をコレラと記している。1902年(明治35年)、姉の辰子が、『観古図説陶器瓦之部』、『観古図説瓦之部』を刊行した。正倉院の所蔵品の散逸に式胤が関わる、との推論が行われている。
◆写真師・横山松三郎
別名は横山文六(三代)。祖父・横山文六(初代)と父・横山文六(二代)は、国後島・択捉島間の航路を開拓した豪商の廻船商人・高田屋嘉兵衛および高田屋金兵衛に仕え、冬期以外は箱館から択捉島に出向き、漁場を管理(支配人)していた。 天保 4 年、高田屋が闕所処分を受ける。祖父・横山文六(初代)と父・横山文六(二代)は、その後も松前藩の場所請負人制となり択捉島で引き続き支配人を務めた。 嘉永元年、父が亡くなり、家族とともに箱館に帰る。 嘉永 5 年、箱館の呉服屋で奉公する。 画を好み、葛飾北斎の漫画を写していたという。 嘉永 7 年、ペリーの米艦隊が箱館に上陸したときに、写真を知る。 安政 2 年、商店を開いた。 安政3年、箱館に「諸術調所」という洋式学問所を開設し、横山松三郎は諸術調所で武田斐三郎から薬品の調合を学んでいた。 武田斐三郎は宮下欽の縁者である牧野毅と強く関わっている人物。安政 4 年、病気のため商店を閉店。この頃、写真機の製作を試みる。 安政 6 年、箱館が自由貿易港となり、米国人・露国人・英国人が住むようになると、彼らから洋画・写真術を学んだ。 ロシア領事ヨシフ・ゴシケヴィッチから昆虫の実写画を頼まれ、その代わりに写真術を学んだ。 文久元年、ロシア領事館の神父・ニコライを通じて、ロシア人通信員レーマンの助手となり、洋画を学ぶ。 文久 2 年、海外で写真を学ぼうと、箱館奉行所の香港・バタヴィア行貿易船「健順丸」に商品掛手附とし て乗り込む。しかし、品川港で渡航中止となってしまった。 元治元年、上海へ渡航が叶う。欧米の洋画・写真を見聞した。 帰国後、横浜で 下岡蓮杖に印画法を教わる。 のち箱館に戻った。 慶応元年、再び上京し下岡蓮杖に写真と石版術を教わる。 慶応元年、箱館に戻り、木津幸吉・田本研造に印画法を教えた。 明治元年、下岡蓮杖に再び石版印刷を学んだ後、江戸両国元坊に写真館を開く。 明治元年、上野池之端に移転し、館名を「通天楼」とした。「通天楼」は、写真館兼私塾であったという。明治元年頃、中島待乳は横山松三郎に師事し、修正術・採光法を学んだ。 なお、待乳の号は横山松三郎が浅草名勝待乳山に因んで付けたとされる。 明治元年、宮下欽が学んでいる。 宮下欽は門人として技術を磨いていただけでなく、「通天楼」の経営面にも奔走していたという。明治 3 年(2 年とも)、門人たちと共に日光山に赴き、中禅寺湖や華厳滝、日光東照宮などを撮影。 片岡如松は日光山撮影に訪れた横山松三郎に同行し、写真術を習う。岩の上で帽子を振る横山松三郎の様子を撮影している。 横山松三郎の「松」の字をとり、片岡久米から片岡如松と改める。
明治 4 年、蜷川式胤(外務省官僚)の依頼で、内田九一と共に荒れた江戸城を撮影。 明治 5 年、蜷川式胤により『旧江戸城写真帖』計 64 枚に編集。洋画家・高橋由一によって彩色された。 明治 6 年、通天楼に洋画塾を併設。亀井至一や亀井竹二郎、本田忠保などの画家を育てた。 明治 7 年、漆紙写真と光沢写真を作った。 明治 7 年、成田常吉が学んでいる。 明治 8 年、菊地新学が学んでいる。 明治 8 年頃、山田境が学んでいる。 明治 9 年、織田信貞に通天楼を譲渡して、陸軍士官学校教官となる。 フランス人教官アベル・ゲリノーから石版法や墨写真法などを教わる。 明治 11 年、士官学校の軽気球から日本初の空中写真を撮影。 明治 13 年頃、「写真油絵法」を完成させる。 明治 13 年、田中美代治が学んでいる。 明治 14 年、陸軍士官学校を辞し、『写真石版社』を銀座に開く。 明治 17 年、市谷亀岡八幡宮社内の隠居所にて死去。墓地は函館の高龍寺。 明治 18 年、写真油絵技法は弟子の小豆澤亮一に継承された。 弟・横山松蔵は北海道で写真師となっている。 妻は紙半旅館(下鉢石町)の主人・福田半兵衛の長女・ 蝶(ちょう)。甥の慶次郎(松三郎の妹・千代の息子)はのち養子に迎え、「横山慶」と改名。 明治8年の東京名士番付『大家八人揃』(東花堂)に「清水東谷、横山松三郎、内田九一、守山(森山)浄夢、加藤正吉、北丹羽(北庭)筑波、小林玄洞」の名がある。