
◆シュティルフリート・アンド・アンデルセン(Stillfried & Andersen)
ライムント・フォン・シュティルフリートとヘルマン・アンデルセンが横浜に設立し、1876年から1885年まで営業していた写真スタジオである。日本写真社(Japan Photographic Association)とも称した。職人の着色による肖像写真と風景写真で知られる。またフェリーチェ・ベアトが撮影したネガも引き継いでおり、プリントを販売していた。オーストリアの貴族(男爵)であるシュティルフリートは、1860年代の初頭から中ごろにかけ、少なくとも2度日本を訪問しているが、1868年から横浜に居住し、そこでベアトから写真を学んだ。1871年8月には、写真スタジオStillfried & Co.を設立。1875年にはアンデルセンが入社し、翌1876年からは二人の共同経営でシュティルフリート・アンド・アンデルセンが設立された。会社はまた日本写真社とも称しており1875年にはその名前で登録されている。1885年まで、双方の名前を適宜使い分けていた。1877年にシュティルフリート・アンド・アンデルセンは、フェリーチェ・ベアトのネガを購入、シュティルフリートの作品と合わせて、その年に日本の風景と装束(Views and Costumes of Japan)を出版した。二人の共同経営は、法的には1878年に解消されたが、アンデルセンは会社の名前を使い続けた。その後両者の間、さらにはシュティルフリートの兄弟まで巻き込んだ法廷闘争が繰り広げられた。1885年に日下部金兵衛がシュティルフリートのオリジナル・ネガの一部を購入、1880年から1890年の初めにかけて日下部が出版した写真集にシュティルフリートの撮影した写真が使われている。 明治15年、玉村康三郎はフェリーチェ・ベアトと提携し、シュティルフリート・アンド・アンデルセン スタジオを買収、15人の日本人従業員を雇い入れた。ベアトと玉村のパートナー関係は数年間と短く、お互いに競合する関係になった。
1885年、シュティルフリート・アンド・アンデルセンは最終的にアドルフォ・ファルサーリに買収されたが、そのときには二人とも既に日本を離れていた。1886年2月、ファルサーリのスタジオは火災にあい、その際にシュティルフリート・アンド・アンデルセンのネガも燃えてしまった。
シュティルフリートは写真家としては、明治天皇盗撮事件を起こしたり、田本研造の後を受けて開拓使に雇用されて北海道の撮影旅行を行ったりした。また1873年のウィーン万国博覧会や1876年のフィラデルフィア万国博覧会にも作品を出展、国際的にも名前が知られるようになった。1870年代後半に、シュティルフリートはダルマチア、ボスニア、ギリシャへの撮影旅行に出かけている。特徴は彩色写真で、これを蒔絵や螺鈿細工などを施した豪華なアルバムとして、主に外国人向けに販売した。着色技師の一人に、後に写真家として名をなす日下部金兵衛がいた。明治 12 年、 成田 常吉は大蔵省印刷局写真科技生となり、御雇外国人バロン・フォン・スティルフリード(シュティルフリート)から写真術 を学んだ。他にも紺野 治重など多くの日本人写真家を育てた。1877年、ベアトの資産を受け継いた。1884年に資産の多くを日下部金兵衛に売却し、日本を離れアジアを転々としながらオーストリアへ帰国。帰国後は皇帝付の宮廷画家となった。
◆写真師・日下部金兵衛
商号は金幣。 父は山梨の松屋という干物商・日下部甚右衛門。長男として生まれる。 安政 6 年頃、横浜に出る。 文久 3 年頃、フェリーチェ・ベアトの下で写真術を学び、助手となる。 慶応 3 年、ベアトに同行して上海に渡り、写真撮影を行う。 明治 10 年(13 とも)、横浜弁天通に写真スタジオ「金幣写真」を開設。 まもなく日の出町にも支店を出した。 明治 17 年頃、ベアト、シュティルフリート、内田九一、上野彦馬(一部)が撮影したネガを引き継ぐ。 明治 22 年頃、本店は本町通 1 丁目 7 番に移転。芝や銀座にも支店を開設。 明治 28 年、第四回内国勧業博覧会には彩色写真を出品。 明治 37 年、セントルイス万国博覧会に写真工芸品を出品。 明治 43 年、横浜写真業組合副理事長に就任。 大正 3 年(元年とも)、写真業を廃業。 1932 年(昭和 7 年)4 月 19 日、92 歳で神戸市内にある孫の家で死亡。