
1963年(昭和38年)、東京都中央区新川の日清製油(現:日清Oillio)本社ビルの建設現場から江戸時代の天保小判1900枚と、天保二朱金約78000枚が発見された。当時の時価で6000万円と言われ、過去最大の埋蔵金発見例となった。そこは鹿嶋家の屋敷跡(明治時代にこの地で酒問屋を営んでいた)であり、写真の現像液を入れるガラス容器3本に小判が入っていたため、鹿嶋清兵衛の埋蔵金と騒がれた。鹿嶋家は終戦の年に空襲で焼き出されていたが、大宮に住んでいた10代目に当たる当主が所有権の名乗りを上げた。清兵衛の実弟・清三郎が兄の7回忌の記念にまとめた冊子『亡兄を追憶して』に「古金の発見」という項があり、それによると、「幕末から明治に変わるころ、幕府の人間が絶えず鹿島家に御用金の取り立てに来たが、断ると嫌がらせをされるため、小判を床下に埋めた。そのまま忘れていたのを清三郎が13歳のときに一度掘り起こし、家族で小判を数えた」といった内容の記述であった。これによって、発見された埋蔵金は鹿嶋家の子孫に返還された。
◆写真師・鹿島 清兵衛
幼名は鹿島政之助。慶応 2 年、大坂の造り酒屋「鹿島屋(8 代目天満 鹿嶋清右衛門)」の次男に生まれる。 明治 3 年頃、天満鹿嶋没落により、東京の鹿島屋(七代目江戸 鹿嶋清兵衛)の養子となる。 後、成人して長女の乃婦と結婚し 8 代目となった。 帝大工科教授の英国人博士バルトンに写真についての理論面・技術面を学び、小西本店(現・コニカミノ ルタ)や浅沼商会から欧米の写真材料を輸入した。 明治 18 年、鹿島清兵衛は写真師・江崎礼二に写真術の手ほどきを依頼している。 鹿島清兵衛は江崎礼二の助手であった今津政二郎を 1 年半の間、熱心に写真術を学んだという。 明治 22 年、創立された「日本写真会」に早速入会した。 小川一眞の乾板写真研究に投資援助するなど、アマチュア写真団体の創設や写真界の開催、関係書籍の刊 行など写真技術の向上にも貢献。 木挽町に写真館玄鹿館を営み、英国で写真術を習得した弟・鹿島清三郎に経営を任せた。 日露戦争後には公共に大尽風を吹かせ、新橋の名妓・初代ぽんた(鹿島ゑつ)を落籍。 しかし、のち破産し、鹿島家から除籍され養子縁組も解消される。 明治 28 年、有藤金太郎はイギリスで写真術を研究し、のち鹿島清兵衛のもとで写真技師となった。 その後、本郷で写真業を経営したが、撮影中のマグネシウム爆発によって負傷し廃業。 (明治 32 年、本郷春木座で上演された高野聖のバックに仕掛けた花火装置の暴発から、右の指を失い、 以降、写真撮影が不可能となったとの表記もある) 以後は梅若能に出演し、三木助月の芸名で能楽師・梅若流笛方なる。 この間、妻のぽんたは夫を助け、子育て、踊の師匠、寄席、地方巡業に出るなど尽くした。 大正 13 年、死去。死後、鹿島清兵衛のそばに出入りしていた落語家が、「鹿嶋大塵噂話」と題して、高座で上演を始める。写真師としての功績よりも、金持ち旦那のお遊びのような物語が印象強く残ってしまっている。