【古写真の調査後売却】松山地方裁判所長・千葉直枝(写真師鈴木真一)

会津藩士・千葉直枝

◆千葉直枝
正五位、勳四等。爵位・身分・家柄 福島縣士族。職業 判事、松山地方裁判所長。生年月日 安政二年九月二十四日 (1855)。親名・続柄 内村嘉内の二男。家族 養母 イヨ 天保六、九生、福島、士、亡高木信八二女。妻 アヤ 慶應三、四生、山形、士、大河原勘兵衞長女。男 誠一 明一六、二生、法學土、辯護士。君は福島縣士族内村嘉内の二男にして安政二年九月二十四日を以て生れ先代右衞門太の養子となり明治二十年三月家督を相續す家貧にして給仕より身を起し判事補となり同二十年判事登用試驗に及第し爾來靜岡地方裁判所判事長野宇都宮各地方裁判所部長根室鳥取各地方裁判所所長を經て後松山地方裁判所長に轉し現に其職にあり。家族は尚四男康彦(明三一、六生)五男信(同三四、一〇生)三女道(同三七、八生)四女清(同四〇、一一生)五女和(同四三、一一生)孫正雄(同四五、三生、長男誠一長男)あり。二女アイ(同二五、七生)は福島縣人里高橋千里に嫁せり。住所 松山地方裁判所長官舍。

◆写真師・鈴木 真一(初代)
本名は高橋勇次郎。 天保 6 年、高橋文左衛門の三男として生まれる。 高橋家は代々、農業と漁業の兼業の家であった。 天保 8 年、父、母が相次いで亡くなり、家を継いだ長兄を助け、家業を手伝った。 安政元年、下田(大工町)の資産家で質物と荒物商・鈴木與七(屋号・大坂屋)の婿養子となる。 安政元年 11 月 4 日、安政の大地震が起こり、鈴木家は甚大な被害を受け財産を失った。 のち、旧宅の瓦礫を取り除いている時、義父・鈴木與七が土中に埋めた小判等が流失を免れて出てきた。 これを元手に家は修造し、また雑貨商を営むことになるが、あまりうまく行かなかった。 のち、養蚕業に転じたが、一時的な儲けに終わった。 慶応 3 年(2 年とも)、単身で横浜に出る。 下岡蓮杖と知り合いであったため、横浜で下岡蓮杖の元へ訪ね、弟子となった。 横山松三郎と共に、下岡蓮杖の手助けをしながら写真術を学ぶ。 明治 6 年、独立し、横浜弁天通六丁目弁天橋前と本町の三叉路に開業。 明治 7 年、下岡蓮杖の門下・岡本圭三が長女・のぶの婿となる。 (岡本圭三は、後の二代目鈴木真一) 明治 7 年、北白川宮、小松宮を撮影。 明治 10 年、第一回内国勧業博覧会に皇族の肖像写真等を出品し、花紋章を受章。 明治 12 年、金井弥一が学んでいる。 明治 14 年、東京麹町区飯田町二丁目五十三番地(九段坂)に支店を開業し、岡本圭三に任せた。 岡本圭三に 2代目鈴木真一の名前を継がせた後は鈴木真と名乗った。 明治 15 年、田中美代二が学んでいる。 明治 16 年、成田常吉が学んでいる。 明治 17 年、横浜真砂町一丁目一番地に本店を移転。 この頃、陶磁器に写真を焼き付ける技術を開発し、外国人向けの商品として販売した。 また、風景写真と人物や、人物写真 2 点を合成した「ハテナ写真」が評判となった。 明治 30 年、隠居し、長男・鈴木伊三郎へ家督を譲る。 伊三郎も「鈴木真一」と改名することになったため、岡本圭三(2 代目鈴木真一)と重なることとなった。 明治 35 年頃、岡本圭三は、二代目・鈴木 真一の名を返上している。 隠居後は礫庵久米仙人と称して、東京小石川小日向台町「礫庵」で過ごす。 大正 7 年、死去。 なお、写真館(九段坂)はのちに佐藤福待中島待乳の弟子)が購入し、佐藤写真館を開業した。のち長谷川保定に譲っている。