【古写真関連資料】幕府奥医師・林洞海と、門人・須田泰嶺

【古写真関連資料】幕府奥医師・林洞海

林 董
旧姓は佐藤、幼名は信五郎、董三郎。 父は下総佐倉藩(現在の千葉県佐倉市)の蘭方医・佐藤泰然、母はたき。末子として生まれる。写真師・佐藤福待は縁者。蘭方医・松本良順は実兄。 幼少期に佐倉藩の藩校成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校)で学ぶ。 文久 2 年、姉(つる)の夫で江戸幕府御典医・林洞海の養子となり、林董三郎と改名。 また、両親と横浜に出た。 浜田彦蔵やヘボン婦人らに英語を学ぶ。 慶応 2 年、幕命で英国留学。 慶応 4 年、帰国。義弟の榎本武揚に従って函館で戦い、敗れた。 明治 3 年、釈放される。 明治 4 年、新政府の神奈川県出仕。 明治 4 年、外務省に入り、岩倉遣外使節団に随行。 明治 6 年、帰国して工部省に従事。 その後は外務次官、駐清国公使などを歴任。 この頃、鉱山局所有の八切暗箱カメラで写真術を体得。のち日本写真会第二代会長を務めた。 明治10年(7年とも)、山本讃七郎が書生となり写真術を学んでいる。明治 33 年、駐英公使。 明治 39 年、第一次西園寺内閣に外務大臣。 明治 40 年、伯爵。大勲位瑞星大綬章。 明治 44 年、第二次西園寺内閣の遁信大臣。 大正元年、内閣総辞職で引退。 大正 2 年、葉山で死去。墓所は青山霊園と神奈川県大磯町の妙大寺。

須田 泰嶺
須田家は、代々医業を営んでいた。父・高遠藩医・須田経徳の三男として生まれる。 幼名は須田安吉、名は須田経石、須田老嶺、諱は須田経哲、号は須田泰嶺。 弘化元年、伊勢の松崎文誼(医師)の門人となる。 弘化 3 年(元年とも)、江戸の林洞海(豊前国小倉藩士、蘭方医。幕府奥医師、林董の養父)の門人となる。嘉永元年、佐倉の佐藤泰然の順天堂に入り、蘭方医学を修めた。 嘉永 4 年、故郷で外科、産科を開業し、種痘を実施したことで高遠藩から賞詞を授かる。 安政 4 年、藩命で再び江戸へ出て、林洞海や伊藤玄朴の下で重ねる。また、象先堂の塾頭を務める。 万延 2 年、阿波国・蜂須賀家の藩医となる。 文久元年、江戸幕府奥医師・伊東玄朴の下で、国内初のクロロフォルム麻酔を使用した脱疽手術を行う。 文久元年以降、シーボルトより写真術を習った。 また、鈴木真一にその技術を伝授したともいわれるが、鈴木真一側の資料からは確認できていない。 のち江戸・日本橋で開業。 慶応 2 年、一時、阿波藩主蜂須賀斉裕に仕える。のち幕府医学所の要請で軍陣外科の講義を行った。 明治元年、高遠藩医。 明治 2 年以降、大学中教授、文部省中助教、神奈川県病院長、小田原病院長などを務める。 明治 41 年、死去。

山本 讃七郎
祖父は後月郡梶江村(井原市芳井町梶江)庄屋・山本能通(山本仙五郎、山本 吉右衛門、山本 重兵衛、山本朴介)。 祖母は、小田郡甲怒村の大山家出身。 父は祖父の庄屋を継いだ山本実太郎。 母は川上郡九名村(美星町友成)代官横田政明の娘・ 横田林(りん)。明治元年頃、漢学者、儒学者の阪谷朗廬と山鳴弘斎の三男・山鳴清三郎(または坂田警軒の兄・坂田待園) が大坂で学んだ湿板写真を披露。初めて写真を見た。 明治 4 年、兄・山本讃太郎(別名は楫江順。陸軍参謀本部陸地測量部測量士)を頼って上京。 明治 10 年(7 年とも)、叔父の山本梅園の師(林洞海)の養子・林董の書生となり写真術を学ぶ。 また、横山松三郎にも学び、横山松三郎門下の中島待乳の門に入った。 なお、叔父の山本梅園は、同郷の芳井町出身の蘭方医、一橋家の御典医。 明治 15 年、芝日影町一丁目 1 番地で開業。 明治 22 年、明治天皇の鳳輦を撮影。 明治 27 年頃、鹿島清兵衛の玄鹿館主任技師。 明治 29 年、玄鹿館が倒産。 明治 30 年、当時、清国駐剳全権公使であった林董に誘われ北京へ移る。 北京霞公府街を拠点に城内外を撮影。明治33年9月14日の新聞記事に、山本讃七郎の語った記事がある。内容は北京で西太后とともに籠城し九死に一生を得たこと。助手の「渡辺友吉」「松本幸八」を連れてふたたび清へ渡り、写真館を開いたたことなどが語られている。明治 33 年、帰国し、芝日影町一丁目 1 番地の写真館を従兄弟の横田雄寿に譲る。 ふたたび北京に移動。 しかし義和団の乱が起こり休業。 居留民義勇隊に属して、一等軍医・中川十全の助手を務めた。 明治 34 年、勲八等瑞宝章。 明治 35 年、従軍記章を受章。 明治 34 年、中国に戻り、霞公府街に山本照像(相)館を開業。 明治 37 年、頤和園に招かれ、西太后を撮影。 明治 39 年、関野貞の古建築・遺跡調査に参加。 明治 44 年、山本照像(相)館を甥・山本素卜に任せて帰国。 明治 44 年、麻布区我善坊町 28 番地(港区麻布台一丁目 1 番)に移住。 明治 45 年、林董の別荘があった神奈川県葉山町堀内に移住。 のち山本照像館は王府井大街 26 号に移転し、長男・山本明が継いだ。 昭和 4 年頃、両親のいる大田区田園調布に移住。 昭和 5 年、山本明は山本照像館を岩田秀則に譲る。 昭和 7 年頃、赤坂区青山南町二丁目 10 番地に山本写真館を構え、山本明の一家と同居。 昭和 18 年、死去。墓地は世田谷区烏山町・幻照寺。

◆林 洞海
本の武士・蘭方医。幕府奥医師。名は彊。 文化10年(1813年)、豊前国小倉藩士、林祖兵衛の三男として生まれる。20歳のころ江戸に出て、蘭医足立長雋の塾を通じて佐藤泰然と知り合い、泰然とともに長崎でオランダ医学を学ぶ。江戸に戻り、泰然が開いた和田塾(のちの順天堂大学)を助ける傍ら、オランダ人医師ファン・デル・ワートルの「薬性論」の翻訳を手掛け、それで得た資金で天保11年(1840年)から3年間再び長崎に留学し、その後泰然の娘と結婚して和田塾を引き継ぐ。安政5年(1858年)、大槻俊斎・伊東玄朴らと図り、お玉が池種痘所設立。万延元年(1860年)9月13日、小倉藩医より幕府医師に登用され、奥詰医師となる。同日、二の丸製薬所掛。将軍徳川家定の急病に際し、幕府医師に登用されたとするのは日時の誤りである。文久元年(1861年)8月28日、奥医師に進み、同年12月16日、法眼に叙せらる。明治以降は大阪医学校(大阪大学医学部の前身)校長などを勤めた。明治28年(1895年)没。本郷吉祥寺に葬る。
妻 つる(佐藤泰然の長女)
長男 研海(陸軍軍医総監)
長女 多津(榎本武揚に嫁す)
次女 貞(赤松則良に嫁す。森鷗外の最初の妻・赤松登志子の母)
六男 紳六郎(西周の養子。海軍中将、貴族院議員、宮中顧問官)
子息 武(何礼之の養子)
娘 佐用(図師民喜に嫁す)
養子 (佐藤泰然五男、妻・つるの弟。政治家・外交官。岩崎忠雄の祖父)