
◆立木文龍
藩に雇用されていた儒学者・立木信憲(1741年~1824年、100石)の子または孫と思われる。立木信憲の父は津田栄太郎という。立木信憲は、天明5年、城下南に隠居していた10代藩主・蜂須賀重喜の儒臣となった。藩の儒学者として立木信憲の跡を継いだのは実子ではなく、立木信憲の兄の子「立木信共(2代目)」であり、立木信共の子(立木松園)は3代目となっている。立木信造の兄。徳島藩典医。 慶応 2 年、藩からの留学生として長崎へ医学修行した際、上野彦馬と出会っている。
◆立木信造
藩に雇用されていた儒学者・立木信憲(1741年~1824年、100石)の子または孫と思われる。立木信憲の父は津田栄太郎という。立木信憲は、天明5年、城下南に隠居していた10代藩主・蜂須賀重喜の儒臣となった。藩の儒学者として立木信憲の跡を継いだのは実子ではなく、立木信憲の兄の子「立木信共(2代目)」であり、立木信共の子(立木松園)は3代目となっている。徳島藩典医の家に生まれ、藩校でオランダ語、ドイツ語、英語を学ぶ。 慶応 2 年、藩からの留学生として長崎へ医学修行に出た兄・立木文龍が、上野彦馬と出会っている。 また、科学者・長井長義を通じて写真に興味を持った。 長井長義 も徳島藩典医の家で、慶応 2 年に長崎留学を命じられており、化学をボードウィンか ら学んだだけでなく、長崎での下宿先が上野彦馬宅であった。 明治 16 年、徳島市に立木写真舘を開業。のち善通寺にも分館を設けた。 明治 39 年、徳島県でいちはやく長距離電話を取り入れた。 明治 42 年、赤レンガの「マンサード式」洋館の社屋を新築。 大正 10 年、死去。上野彦馬の門人に立木行義という名があるが、同一人物か特定できない。立木真一は息子で跡継ぎ。
◆中沢岩太
宮内幸太郎が写真化学を学んでいる。中澤岩太の表記もある。父・福井藩士中沢甚兵衛(中沢七平)の長男。幼名は 中沢東重郎。文久4年、 中沢岩太と改名。幼少時に福井藩士・田川氏の私塾で漢書、習字を学ぶ。のち塾を預かった芳賀真咲(国文学者、帝国学士院会員、芳賀矢一の父)に就いて学んだ。芳賀真咲は、越前福井の国学者で、幼名は三作・真之助、号は孔舎農家といい、橘曙覧・平田鉄胤門下であった。明治3年、父が隠居し家督を継いだ。この頃、福井藩からドイツ語修業生を命じられ学修している。明治4年、福井藩の藩校明新館(明道館)でグリフィスが物理・化学を教えていた際に、聴講の資格がないのにもかかわらず教室に入り、質問に対し聴講生以上の答えを述べたため黙認されるようになった。明治4年、グリフィスに同行して上京。明治5年、東京で、大学南校に入学。
明治9年、東京開成学校予科を終了し、化学科に入学。明治9年、地質学修業のためナウマンにしたがって浅間山、立山、磐梯山等に登った。明治12年、旧東京大学理学部化学科を首席で卒業した。明治13年、東京化学会会長を務めた。明治14年、アトキンソンのイギリス帰国に代わり、ドイツ人のワグネルが教鞭を執ることになった際、岩太は東大の助教に任命され、陶器、玻璃の研究に従事。明治16年、文部省官費留学生としてドイツに留学。ベルリン大学に入学。明治20年、帰国。明治20年、松井直吉の後任として帝国大学工科大学教授に就任。明治23年、御料局佐渡支部付属王子硫酸製造所の事業嘱託。明治25年、工手学校(現工学院大学)第二代校長。明治24年、工学博士学位を授与。明治30年、蜂須賀茂韶文部大臣に呼び出され、新大学の理工科大学長就任を相談され受諾。明治30年、京都帝国大学理工科大学の創設に伴い初代学長に就任。明治33年、第三高等工業学校創立委員。明治33年、パリ万国博覧会の出品調査と実業学校視察のためフランスへ派遣。明治35年、新設された京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)の初代校長に就任(京都帝国大学理工科大学教授兼任)。明治39年、関西美術院を設立し顧問に就任。明治40年、京都帝国大学名誉教授。大正7年、京都高等工芸学校の校長を辞任して同校の名誉教授に就任。昭和18年、死去。応用化学者で高野連会長を長く務めた中澤良夫は息子。
◆須田泰嶺
須田家は、代々医業を営んでいた。父・高遠藩医・須田経徳の三男として生まれる。 幼名は須田安吉、名は須田経石、須田老嶺、諱は須田経哲、号は須田泰嶺。 弘化元年、伊勢の松崎文誼(医師)の門人となる。 弘化 3 年(元年とも)、江戸の林洞海(豊前国小倉藩士、蘭方医。幕府奥医師、林董の養父)の門人となる。嘉永元年、佐倉の佐藤泰然の順天堂に入り、蘭方医学を修めた。 嘉永 4 年、故郷で外科、産科を開業し、種痘を実施したことで高遠藩から賞詞を授かる。 安政 4 年、藩命で再び江戸へ出て、林洞海や伊藤玄朴の下で重ねる。また、象先堂の塾頭を務める。 万延 2 年、阿波国・蜂須賀家の藩医となる。 文久元年、江戸幕府奥医師・伊東玄朴の下で、国内初のクロロフォルム麻酔を使用した脱疽手術を行う。 文久元年以降、シーボルトより写真術を習った。 また、鈴木真一にその技術を伝授したともいわれるが、鈴木真一側の資料からは確認できていない。 のち江戸・日本橋で開業。 慶応 2 年、一時、阿波藩主蜂須賀斉裕に仕える。のち幕府医学所の要請で軍陣外科の講義を行った。 明治元年、高遠藩医。 明治 2 年以降、大学中教授、文部省中助教、神奈川県病院長、小田原病院長などを務める。 明治 41 年、死去。
◆蜂須賀氏
日本の氏族の一つ。羽柴秀吉に仕えた蜂須賀正勝(小六・小六郎)の一族が著名。新井白石が作成した『藩翰譜』(または『寛政重修諸家譜』・『古代氏族系譜集成』所収系図)の中から作成された系譜の『蜂須賀氏系図』によると、下野源氏(足利氏)の足利泰氏、もしくは斯波氏の裔を自称する。しかし、多くの史家がこれを疑問を抱いており、蜂須賀氏の出自に関しての確証は未だにない[注釈 3]。小和田哲男の説によると、楠木氏の一族とされる。『蜂須賀家記』考異によると、正勝はもともと藤原姓を称しており、松平氏が藤原姓から源姓に改めたのに従って、忠英の代になって源姓に改めたとしている。また伝承として、上野源氏(新田氏)一門の里見氏流鳥山氏の支族の肥後蜂須賀氏の当主の正家(能祐の孫)の娘(斯波氏に嫁いだ)の子の正秋の後裔で、尾張国中村に移住したとも伝わる。蜂須賀氏の系図で信憑性があるのは、『寛政重修諸家譜』・『系図纂要』に記されている正利あたりからで、正利・正勝・家政と3代続いて、小六(小六郎)または彦右衛門を通称としている。それ以前については異説が多数あり、極めて不確かである。南北朝時代に蜂須賀氏の遠祖とされる景成(二郎兵衛尉)なる人物が南朝方の武将として活躍し、その子孫の正昭(正秋)が、尾張国蜂須賀郷を領し、蜂須賀氏を称するようになり、正勝の曾祖父・正永(広秋、正氏、広昭)を始祖とする説があり、下系図にはそれを記した。別説では、織田大和守家・織田敏定の重臣俊家を広俊(正成)の父として、家祖と推定する。美濃国に隣接する尾張国海東郡蜂須賀郷(愛知県あま市蜂須賀)を領した国人で、川並衆であったともいう。正勝の曾祖父・正永の代までは尾張守護の斯波氏に仕えていたが、斯波氏が衰えたため、父の正利の代には美濃国の斎藤氏に従った。上述の正勝の代になって蜂須賀氏は織田氏の配下に属して、歴史の表舞台に登場する。正勝は秀吉の与力として活躍し、その子の蜂須賀家政と共に秀吉直臣となって、阿波一国を治める大名へと立身した。秀吉の死後、関ヶ原の戦いにおいて、家政の子の蜂須賀至鎮が東軍に与し、領土を安堵され、子孫は徳島藩の外様大名として代々松平の名字を徳川将軍から授与され存続し、明治維新を迎えている。ただし、8代蜂須賀宗鎮から2代は高松松平家(水戸徳川家の御連枝)からの養子、10代蜂須賀重喜は秋田佐竹家からの養子で、元々の蜂須賀氏の血筋ではなかった。また、13代藩主蜂須賀斉裕の実父が11代将軍徳川家斉であり、最終的には徳川将軍の血筋となった。明治時代に華族令により侯爵に任ぜられ、紀州徳川家・水戸徳川家と並ぶ屈指の富豪華族として知られた。北海道で大規模な農場経営をおこなったが失敗し、ここから凋落が始まる。大正から昭和期に18代当主となった蜂須賀正氏は世界的な鳥類学者として知られるが、一方でたびたび犯罪に絡んだために「華族の品位を落とす」とされ、1945年(昭和20年)7月に侯爵位を返上した。戦後は正氏の遺族の間で財産争いが起こり、そこに暴力団もからんだために過半の財産を消失し、蜂須賀氏は没落した。