伊東 玄朴(いとう げんぼく)

写真術を研究していた時期がある。
仁比山神社に仕えた執行重助の子として誕生。のち佐賀藩士・伊東家の養子となる。執行家は、佐賀藩着座執行家および櫛田宮社家執行家の一族と考えられるが、当時は農民であった。伊東家は、戦国時代の龍造寺氏の譜代家臣・伊東家秀の子孫。長崎の鳴滝塾でシーボルトよりオランダ医学を学ぶ。文政9年、オランダ商館長・カピタンの江戸参府にシーボルトが随行する際、一緒に向かい、そのまま江戸に留まり、佐賀藩医の身分で蘭学の諸同志と交流した。文政11年、シーボルト事件で連座を免れた。嘉永2年、佐賀藩に牛痘種痘苗の入手を進言し、オランダ商館を通して入手。安政5年日、大槻俊斎・戸塚静海らと図り江戸に種痘所(お玉が池種痘所)を開設、弟子の池田多仲を同所の留守居とした。同年、江戸幕府第13代将軍・徳川家定の脚気による重態に際し、漢方医の青木春岱・遠田澄庵、蘭方医の戸塚静海とともに幕府奥医師に挙用。文久3年、緒方洪庵が死去すると、後任の頭取に松本良順が就いた。松本良順の弾劾により玄朴は失脚、小普請入りとなる。元治元年、寄合医師に昇格。明治4年、死去。墓は東京都台東区谷中の天龍院。大正4年、大正天皇即位の礼に際して従四位を贈られた。妻は長崎のオランダ語通詞・猪俣傳次衛門の長女・照。婿養子の伊東方成(玄伯)は、明治天皇の侍医。

生年/出身: (寛政12年) 佐賀(神埼市神埼町的仁比山)

開業年:

開業地、主要拠点:

師匠:

弟子: