名古屋で写真術を研究していた時期がある。薩摩藩長崎重役の汾陽次郎右衛門(汾陽光遠)の関係者と思われるが特定できていない。薩摩の汾陽次郎右衛門は、慶応2年福井に交易交渉に赴いており、五代友厚、坂本龍馬、グラバーとも交流があった。汾陽家は、明国山西省呂梁市汾陽が発祥。郭周王季の後裔という汾陽理心光禹に始まる。永禄2年、汾陽理心光禹は日本に渡り、島津義久のもと医師となり、その後も代々薩摩藩士として仕えた。のち、長男・ 汾陽永左衛門が早世したため、次男・汾陽正右衛門光昌が継ぎ、島原の乱に従軍。汾陽光昌の嫡子は汾陽茂右衛門、子孫は汾陽理右衛門という。 江戸期の地頭では、薩摩国(寛文8年、川内)に高江郷・汾陽次郎右衛門、東郷・汾陽八右衛門。日向国に倉岡郷・汾陽次郎右衛門、須木郷・汾陽理左衛門、吉田郷・汾陽次郎右衛門がいる。
生年/出身: 鹿児島
開業年:
開業地、主要拠点:
師匠:
弟子: