【古写真の調査後売却】済世学舎医師・安田半畊(写真師・中黒實。鶏卵紙、台紙貼り付け)

◆写真師・中黒 實
明治 30 年代、本郷区弓町に写真館を新築。
開業年: 1897(明治 30 年代 )開業地、主要拠点: 東亰(本郷四丁目)師匠: 丸木 利陽

◆済世学舎医師・安田半畊
本名は安田来吉。明治元年に氷上町田中、安田耕逸の次男として生まれる。初め、父と菅沼定之に漢学を生び、後に安田家の大本家の家督を継ぐ。 本家では代々「半畊」という名前を継承し、「安田半畊」を名乗った。先代の安田半畊(養父)は蘭学医シーボルトに就いて学び、三丹の名医と称された人物。養父に倣い医学の道を志し、二十歳になると東京へ赴き「済世学舎」で勉学に励み、医術前後期試験に合格。帰郷の後、丹波の地で開業するものの、更に学ぼうと再び東京・東大の桜井博士の研究室で眼科の勉強をして、後に福知山、明石、綾部に開業。兄(南画家の安田鴨波)の影響もあり、漢詩や南画にも秀でていた。兄に南画を習い一時医業を休み歴遊したという。

◆家族など
・安田鴨波
安田半畊の兄。
本名を壽吉と言い幼児期に三川経憲に学び、後に淀藩 菅沼定之に経書算数を修め氷上郡役所の書記となる。 明治13年、 父 耕逸の従兄で陶工の三代目 清風与平の紹介で田能村直入に入門し南画を学び、直入から「唯々庵」の号を命ぜられる。
直入が開いた「私立南宗画学校」で司計(会計)を務め、その後郷里に戻り、長男の安田栗郷、石井霞香、田中銀龍洞、千種竹斎など多くの子弟を育てた。阪鶴鉄道の社長などを務めた田艇吉も、晩年鴨波に南画を学び「松鶴」と号し絵を描いている。

・安田梅荘
安田半畊の父。本名は耕逸。別号を松川と称し竹鼻纜山、巌垣月州に学び詩書を能くした。明治6年「相救社」の教頭。

・安田春牛
安田梅荘の兄。本名は丞右ヱ門。竹鼻纜山に学び詩書を能くし、初代 幸世村長などを努めた。

・安田種雄
安田春牛の長男。3代・5代・8代の幸世村長や郡会議長なども努め、その傍ら撃剣道場を開き教授。

・安田晩翠
本名を幹雄。別号を龍城。6代 幸世村長、初代 幸世郵便局長。南画を鴨波に学んだ。

・安田宕山
本名を擴ニ。2代 幸世郵便局長。傍ら 鴨波、栗郷に南画を学んだ。

・安田含翠
本名を作治郎、別号を午睡庵。竹鼻纜山に学び詩書を能くした。

・安田栗郷
安田鴨波の長男で 本名を耕壽。南画を鴨波に、漢詩を若生国栄に学び、俳句を松瀬青々、吉田忠一に師事。

・安田雲林
安田鴨波の次男。本名を道夫、別号を楽山、参天子と称した。教職の傍ら南画を鴨波に学ぶ。

・安田禾念
安田鴨波の三男、本名を稔。南画を鴨波、栗郷に学んだ。

・安田虚心
安田栗郷の長男。本名を節。栗郷に南画の手ほどきを受け、水田硯山に師事し、その後、渡瀬凌雲、川端皐白に師事し「日本南画院」の理事。