
◆泉尾公設市場(三泉共同市場)
かつて、三軒家の一部として古くから栄えてきた地域と続いて開発された「泉尾新田」と呼ばれたところで、明治の中頃までは農業が主でした。 明治44年に、西大阪最初の問屋市場「三泉共同市場」が開設され、これは大阪市の商業市場でも先駆的なもので、周辺住民が市中にまで買い物に出かける必要がなくなるとともに西区九条方面からの買出しに来る人々も多く、賑わうことになりました。さらに、大正11年には公設市場が開設され泉尾(中通)が発展する端緒となりました。 現在も区内有数の商業地域として賑わいを見せています。また、高等学校3校(市立泉尾工業高校、府立泉尾高校、府立大正高校)、トモノス大正、市立老人福祉センターなどがあります。泉尾(いずお)は、大阪府大阪市大正区にある町名。現行行政地名は泉尾一丁目から泉尾七丁目。三軒家の地名は、江戸時代初期の開発当時に3軒の民家があったことが由来となっている。三軒家は摂津国西成郡木津村の中村勘助(木津勘助)によって開発された。北村および泉尾(いずお)の地名は、江戸時代にこの地を開発した北村六右衛門に由来する。そのうち、「北村」は姓をそのまま取り、「泉尾」は北村六右衛門の出身地・和泉国大鳥郡踞尾(つくの)村(現在の堺市西区津久野町)から、和泉国の「泉」と踞尾村の「尾」を組み合わせて命名された。北恩加島(きたおかじま)・南恩加島(みなみおかじま)・千島・小林の地名は、江戸時代にこの地を開発した岡島嘉平次に由来する。「北・南恩加島」については、開発者・岡島嘉平次への敬意を示すため、この地を担当していた代官が「岡島」を「恩加島」の表記に変更した。「千島」および「小林」は、岡島嘉平次の出身地・摂津国東成郡千林村(現在の大阪市旭区千林)からとっている。平尾の地名は、江戸時代にこの地を開発した平尾与左衛門に由来する。船町および鶴町の地名は、万葉集の和歌から町名がとられている。船町や鶴町など区の南西端は明治以降の大阪港第一次修築工事の際に埋立・開発がすすめられた町である。なおこの地にはかつて鶴浜通・福町の地名もあり、これらの地名も万葉集からとられていたが、住居表示の実施によりいずれも鶴町に統合される形で姿を消している。大正区(たいしょうく)は、大阪市を構成する24行政区の一つである。区全体が運河に囲まれた島状の地形となっている。大正初期以来沖縄県からの移住者が多かった地域で、沖縄料理や沖縄食材を扱う店が多く、「リトル沖縄」とも呼ばれる。2016年現在、大阪市24区の中で最も人口が少ない。