
自動車のナンバーが「新」とあるため、1919年4月18日新潟県知事に就任した当日の撮影と思われる。
◆太田 政弘
日本の内務官僚、政治家。警視総監(第30代)、関東長官(第6代)、台湾総督(第14代)、貴族院議員。山形県出身。鶴岡藩士・弁護士、太田政道の長男として生まれる。山形中学、第一高等学校を経て、1898年(明治31年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務属となり内務省警保局警務課勤務となる。1899年(明治32年)11月、文官高等試験に合格。1900年(明治33年)2月、三重県事務官に就任し、さらに同県内務部第1課長を務める。1902年(明治35年)3月、宮崎県警察部長に就任。以後、島根県警察部長、愛媛県警察部長、愛媛県事務官・第四部長(同県警察部の改称)、長崎県事務官・第四部長を歴任。1906年(明治39年)8月、警視庁官房主事に発令され、さらに第一部長兼消防本部長となる。1909年(明治42年)7月、指紋制度研究のため欧米に出張し1910年(明治43年)4月に帰国。1912年(大正元年)12月、警保局長に就任し、1913年(大正2年)2月まで在任し休職した。1913年6月、福島県知事となり、以後、石川、熊本、新潟、愛知の各県知事を歴任。1924年(大正13年)6月、警視総監に就任し、1927年(昭和2年)4月までこれをつとめた。1926年(大正15年)1月29日、貴族院勅選議員に勅任され、研究会に属し1947年(昭和22年)5月に貴族院が廃止されるまでこれをつとめた。その間、1929年(昭和4年)8月には関東長官を、1931年(昭和6年)1月には第14代台湾総督に就任し1932年(昭和7年)3月に辞任。その後立憲民政党総務となっている。戦後、関東長官のため公職追放となった。1918年(大正7年)6月10日 – 従四位1923年(大正12年)8月30日 – 正四位[3]1927年(昭和2年)5月16日 – 従三位1951年(昭和26年)1月24日 – 正三位1920年(大正9年)11月1日 – 旭日中綬章1932年(昭和7年)4月13日 – 勲一等瑞宝章
長男 太田政明(内務省官吏)二男 高橋政知(実業家。元オリエンタルランド社長、東京ディズニーランド生みの親)娘婿 横山正(内務省官吏)・島田昌勢(内務省官吏)
◆庄内藩(鶴岡藩)
庄内藩または荘内藩は、江戸時代の日本で、出羽国田川郡庄内(現在の山形県鶴岡市)を本拠地として、現在の庄内地方を知行した藩である。譜代大名の酒井氏が一貫して統治した。明治時代初頭に大泉藩と改称した。藩庁は鶴ヶ岡城。枝城として酒田市に亀ヶ崎城を置いた。支藩に大山藩・松山藩がある。転封の多い譜代大名にあって、庄内藩酒井氏は転封の危機に晒されはしたものの、江戸幕府による転封が一度もなかった数少ない譜代大名の一つである。庄内藩は、藩史に見られるように藩主・家臣・領民の結束が固い。たとえば、天保期に起きた三方領地替えでは領民による転封反対運動(天保義民事件)によって幕命を撤回させている。また、幕末の戊辰戦争では庄内藩全軍の半数近くにおよぶ約2000人の農民や町民が兵に志願し、戦闘で300人以上の死傷者を出すほど奮闘したほか[1]、敗戦後に明治政府から藩主酒井忠宝へ移転の処罰が下されたさいには、家臣領民を上げて30万両の献金を集め明治政府に納めることで藩主を領内に呼び戻している。これら一連の藩主擁護活動は本間光丘による藩政改革に端を発している。この藩政改革以後、領民を手厚く保護する政策が基本姿勢となり歴代藩主はこれを踏襲したため、領民たちは藩主への支持を厚くしていき、藩の危機においては士民一丸となって協力する体制が出来上がっていった。歴代藩主では、老中となった酒井忠寄と、戊辰戦争を戦った酒井忠篤が有名である。