【古写真の調査後売却】南禅寺・琵琶湖疏水(鶏卵紙、台紙貼付)

南禅寺
京都市左京区にある臨済宗南禅寺派大本山の円爾に師事した後、40歳で宋に留学、10年以上も修行した後、弘長2年(1262年)帰国。70歳になるまで自分の寺を持たず修行に専念していたが、師の円爾の死をうけて弘安4年(1281年)に東福寺の住持となった。その10年後の正応4年(1291年)に南禅寺の開山として招かれるが、間もなく死去する。開山の無関の死去に伴い、南禅寺伽藍の建設は実質的には二世住職の規庵祖円(南院国師)が指揮し、永仁7年(1299年)頃に寺観が整った。当初の「龍安山禅林禅寺」を「太平興国南禅禅寺」という寺号に改めたのは正安年間(1299 – 1302年)のことという。一山一寧が正和2年(1313年)には後宇多上皇の懇請に応じ、上洛して南禅寺3世となった。正中2年(1325年)には夢窓疎石が当寺に住している。

建武元年(1334年)、後醍醐天皇は南禅寺を五山の第一としたが、至徳3年(1385年)に足利義満は自らの建立した相国寺を五山の第一とするために南禅寺を「別格」として五山のさらに上に位置づけ、京都五山と鎌倉五山に分割した。明徳4年(1393年)と文安4年(1447年)に火災に見舞われ、主要伽藍を焼失したがほどなく再建。しかし応仁元年(1467年)の乱(応仁の乱)における市街戦で伽藍をことごとく焼失してからは再建も思うにまかせなかった。

南禅寺の復興が進んだのは、江戸時代になって慶長10年(1605年)以心崇伝が入寺してからである。崇伝は徳川家康の側近として外交や寺社政策に携わり、「黒衣の宰相」と呼ばれた政治家でもあった。また、幕府から「僧録」という地位を与えられた。これは日本全国の臨済宗の寺院を統括する役職である。

明治維新後に建設された、当寺の境内を通る琵琶湖疏水水路閣は田辺朔郎の設計によるもので、テレビドラマの撮影に使われるなど、今や京都の風景として定着している。建設当時は古都の景観を破壊するとして反対の声もあがった一方で、南禅寺の三門には見物人が殺到したという。維新直後には政府の上地に遭い寺領の多くを失ったため廃絶に追い込まれた塔頭も少なくなかったが、その跡地は邸宅地として再開発され、そこには植治こと小川治兵衛により疎水から引き込んだ水流を主景とする数々の名庭園が造られ、いまなお貴重な空間として残っている。

明治8年(1875年)、境内に日本初の公立精神科病院「京都府療病院付属癲狂院」(現・川越病院)が設立された。 

明治28年(1895年)1月12日、ランプの不始末から火災が発生、山門を残して大半を焼失した。

1937年、将棋の坂田三吉・木村義雄の対局の舞台となった。この対局は同年の2月5日から11日までの7日間で、持ち時間が各者30時間という大勝負であった。また先手木村の▲7六歩に後手阪田が△9四歩と指したことでつとに有名。勝負の結果は若い木村が高齢の阪田に快勝した。

なお南禅寺境内は平成17年(2005年)に国の史跡に指定されている。琵琶湖疏水(びわこ そすい)とは、琵琶湖の湖水を西隣の京都市へ流すため、明治時代に作られた水路(疏水)である。国の史跡に指定されている。