小曽根 正雄(こぞね まさお)

小曾根正雄とも表記される。慶應元年頃、内田九一は大阪石町(大阪天満)で小曾根正雄の経営する写真館で写真技師として雇われ、撮影に従事してい たという。京都東町奉行・大久保 主膳正忠恕の家臣として幕臣に連なったが、鳥羽伏見の戦いに於いて戦死した。

父は越前福井藩、佐賀藩の御用をつとめた小曽根六左衛門。母は小曽根英(中山氏女)。4人兄弟であり、長男・小曽根乾堂、次男・小曽根清三郎、三男・小曽根正雄、四男・小曽根英四郎。小曽根乾堂は江戸時代末期から明治時代の日本の事業家・書家・文人画家・篆刻家である。明治政府の勅命により御璽・国璽を刻したことで知られる。また、坂本龍馬のよき理解者であり、財政面を支えている。幼名を六郎太、六朗。諱を豊明、字を守辱、乾堂は号で室号を鎮鼎山房・浪平釣叟とした。通称は栄。長崎の人。小曽根英四郎は鉄砲の名手とされ、江戸時代から明治時代まで活躍した長崎の豪商。1866年に坂本龍馬と楢崎龍は長崎へ到着した後に出会い、楢崎龍は英四郎のあう別邸に預けられ、ピストルの操作を教わった。1867年に龍馬と交友を持ち当邸宅に土佐海援隊を設置し支援を行い、大洲藩からチャーターした蒸気船「いろは丸」の会計官として担当した。小曽根清三郎は長崎商人で、海援隊の密使を務めるなど龍馬に協力した。

小曽根家の遠祖は武田勝頼の家臣とされ、家祖は江戸時代初期の平戸道喜。平戸道喜は博多・平戸と移り、慶長年間に長崎本博多町に住み、古物商と外国貿易を生業とした。出島の南蛮屋敷の建設、眼鏡橋の修復、瑞光山永昌寺の建立など様々な事業を行った。平戸道喜の代に小曽根姓に変わり、その後に家運が衰え、小曽根乾堂の祖父の代には貧窮に陥った。父・小曽根六左衛門は幕末頃、越前福井藩や肥前佐賀藩の御用商人となり、長崎屈指の豪商になった。


 

生年/出身: 長崎

開業年:

開業地、主要拠点: 大阪

師匠:

弟子: