内田 九一(うちだ くいち)

医療器械薬種を業とした内田忠三郎の子。 本名・諱は「重」 弘化元年、長崎銅座町(または長崎万屋町)に生まれる。 生年については、死亡を知らせる記事(明治 8 年 2 月付読売新聞など)に、享年 32 歳とあるため、逆算 による。 嘉永 6 年、父が亡くなる。 安政 5 年、母が亡くなる。 万延元年、叔父の長崎萬屋町の医師・吉雄圭斎に引き取られた。 吉雄圭斎の家に育てられ、松本良順の庇護を受け、医学伝習所のポンペに写真術の手ほどきを受けた。吉雄圭斎は出島のオランダ商館出入り医師。のち熊本病院初代院長。名は種文という。 松本良順は幕府の奥医師、医学校頭取、海陸軍医総長をつとめた後、明治新政府下でも陸軍軍医総監をつ とめた重要人物。 松本良順の自伝 『蘭疇』に、内田九一が登場する。 それによると、吉雄圭斎は嘉永元年、オランダの医師モンニッキから種痘法を学んだ。しかし当時は信じ る人がなく、仕方なく自分の親戚二人(当時 4 歳の内田九一と妹の内田菊)に試みて成功した。2 人は両 親が早く亡くなり、九一は松本良順に、菊は吉雄圭斎の下に育てられた。妹の菊は後に長崎大黒町の品川 家の品川徳太に嫁いでいる。 松本良順は長崎でオランダ軍医のポンペに医学を学び、写真にも関心を持つ。この頃、ポンペや前田玄造 らに写真の実技を教えた写真家は、スイス人ピエール・ジョセフ・ロシエであった。 前田玄造は、藩主・黒田長溥から写真術の研究を命じられており、ロシエから湿板写真の実技を習得して いる。その前田玄造の技法に関心を示したのが、松本良順の下で手伝いをしていた内田九一であった。 内田九一は舎密試験所で前田玄造に、後に上野彦馬に写真術を学んだ。 慶応元年、写真業を始めるにあたって、永見伝三郎の尽力を得たとされている。 永見伝三郎(永見英昌)は、のちに第十八国立銀行初代頭取となった人物。 薩摩藩御用商人・永見伝三郎の永見家は、代々長崎会所の御用商人で資産家であり、内田九一の姉(セイ、 エイとも)は、分家で大光寺前の今籠町二十九番地で穀物問屋を営んでいた「永見榮治」に嫁いでいる。 慶応元年、上野彦馬の弟上野幸馬を連れて長崎から舟で、途中は写真を写しながら路銀を稼ぎ、まず神戸 まで来てそこで写真撮影の活動を始めたようである。 このとき、市田左右太(初代)葛城思風森川新七田村景美らに写真術を教えたという。 最初、大阪石町(大阪天満)で小曾根正雄の経営する写真館で写真技師として雇われ、撮影に従事してい たという。小曾根正雄は 長崎の貿易商に小曾根家当主・小曾根乾堂の弟で、後に京都東町奉行・大久保 主膳正忠恕の家臣として幕臣に連なったが、鳥羽伏見の戦いに於いて戦死した人物。 慶応元年、大阪天満橋石町で写真業を開業、多くの志士を撮影した。 後に大阪鎗屋町(上町鎗屋町)へ移転。 慶応元年頃、元芸子の「おうた」と結婚。 慶応 2 年、江戸へ出る。 明治 2 年、石川新助の協力で横浜馬車道通で写真業を開業。 明治 2 年、東京浅草瓦町に支店(九一堂万寿)を創設。 政府高官、俳優、遊女等を撮影し、土産写真として販売も行う。 明治 4 年、横山松三郎と共に旧江戸城を撮影。 明治 4 年、明治天皇、昭憲皇后、英照皇太后を撮影し盛名を得た。 明治 5 年、明治天皇の西国巡幸に同行し各地を撮影。この頃、神田紅梅町に洋館兼写真館の豪邸を建てた。明治 8 年、死去。 明治 13 年頃、内田九一の妻・おうたは、に蛎殻町の米商人・島田慶助と結婚し、門人・山際長太郎を伴 い、順慶町心斎橋東に写真業と写真材料商を兼業し「内田写真館」の名跡を継ぐ。 明治 14 年、北庭筑波が内田九一の名を残すため、浅草の旧写真館を買い取り「旧内田舎」と名付け再業。 明治 18 年、北庭筑波の「旧内田舎」廃業。 明治 22 年頃、山際長太郎の「内田写真館」廃業。 養子の内田總一は陸軍の軍馬医。

明治8年の東京名士番付『大家八人揃』(東花堂)に「清水東谷横山松三郎内田九一守山(森山)浄夢加藤正吉北丹羽(北庭)筑波小林玄洞」の名がある。

生年/出身: 1844 長崎(銅座町) *万屋町とも

開業年: 1865

開業地、主要拠点: 神奈川(横濱馬車道)、東京(浅草)、大阪(天満)

師匠: 前田 玄造 上野 彦馬 小曾根 正雄 堀江 鍬次郎 松本 良順

弟子: 市田 左右太(初代) 葛城 思風 森川 新七 田村 景美 大木 宗保 大井 卜新 薛 信二郎 内田 清介 新井 八郎 飯岡 仙之助 山際 長太郎 長谷川 吉次郎 古賀 暁 内田 酋之助 田井 晨善