
◆中條玄休(中条玄休)
置賜、山形、鶴岡の3県が合併して山形県となったのは明治9年である。明治6年、山形県公立病院の開設が決まったが、医療と医学を目的とするものであった。 医育は、医学生の養成と開業医の再教育を目的としたため、洋方医学を修得した教師が必要であった。 とりあえず置賜病院から、米沢藩の藁科松伯(7代)、中條玄休、堀内亮之輔、西野佐久の4名を雇い入れて出発した。 明治7年になって、浜尾貞一ほか3名を正式に採用し、米沢の4名は解任された。 また「官立病院」から「山形公立病院」と改称した。 だが教師となるべき適任者が得られず、ようやく、医学寮の教師として東京医学校(東大医学部の前身)医員で、米沢藩出身の海瀬敏行が、月俸150円で招聘された。 明治11年、公立病院に4層楼の新館が増設され、太政大臣・三条実美から‘済生館’の扁額揮毫を得たのを機に、山形済生館と改称された。 明治13年、医学寮にオーストリア人アルブレヒト、ローレッツ(A,von Roretz,1848~ 1884)が免れ、明治15年まで勤務した。 この医学寮は明治18年、乙種医学校となつたが、明治21年廃校となった。
◆父・高橋松丘
高橋松丘(名は精一、幼名玄勝。玄益を襲名、字は執中、号は松丘。生年不詳、天保十年=1839没)は桂山の嫡子で、上杉家支侯上杉勝義の侍医、ついで十二代藩主斉憲の侍医をつとめた。好生堂の助正、頭取をつとめ名声高く藩医の中心的存在であった。松丘には三男四女があったが、二女のせつは三潴玄寿(白圭)に嫁し、三女ふじは医家の有壁家へ、四女みかは飛田家へそれぞれ嫁し、二男は藁科家に入り七代且松伯を継承し、三男は中条家に入り、中条玄休を襲名した。 嫡子の玄迪(のち玄勝)は幕末の混乱期、藩医筆頭として戊辰戦争中は病院頭取として先頭に立って活躍した。又、娘婿の三潴玄寿と次弟の藁科松伯は共に大坂に出て適塾で緒方洪庵に師事、のち長崎に出て修学している。