坂田 待園(さかた たいえん)

坂田 待園写真師台紙鶏卵紙

写真師の山本讃七郎は明治元年頃、漢学者、儒学者の阪谷朗廬と山鳴弘斎の三男・山鳴清三郎(または坂田警軒の兄・坂田待園)が大阪で学んだ湿板写真を披露された際、初めて写真を見たという。

父は坂田端一。母の出は平尾氏。 阪谷朗廬の甥で、坂田警軒の兄(二男)。本名は雅夫。簗瀬村の医師・山鳴大年のもとで医学を学ぶ。 のち、広島(福山)・大坂で修行を積み、芳井村で医業をはじめた。その後、玉島に移り、浅口郡医会会長となる。衛生面から玉島の沙美に海水浴場を開設し、牛乳の普及も行った。沙美海岸は、明治13年に坂田待園が発案し、黒崎村長・吉田親之の協力で海浜病院を建て、海水浴を初めて医療として日本に紹介した。1890年死去。

弟の坂田警軒は、明治期の漢学者、衆議院議員。名は丈、字は夫卿、初名は丈助、のち丈平。警軒または九邨と号した。備中国川上郡九名村(現・岡山県井原市)に生まれる。阪谷朗廬の甥。嘉永6年(1853年)に藩校・興譲館で学び、都講まで進む。万延から肥後国に遊学し、木下犀潭に入門。井上毅・竹添進一郎と共に木門の三才と称されるようになった。慶応元年(1865年)に江戸に出て安井息軒(田中正幅の師)に師事し、慶応3年(1867年)に帰郷して岡山藩家老池田氏の賓師から、明治元年(1868年)に阪谷朗廬の後をうけて第2代興譲館館長に就任。明治23年(1890年)に岡山県選出で第1回衆議院議員総選挙に当選(以後2回当選)。明治26年(1893年)には東京に移り、慶應義塾及び高等師範学校で講師を務めた。死没に際して従五位に叙される。

坂田警軒の四女、坂田明は、1874年、坂田警軒の四女として興譲館で生まれた。明治20年(1887)、神戸女学院で学び、さらに専門的学問を習得するために、上京し、東京の濱田助産婦学校で学ぶ。東大医学部産婦人科で勤務した後、明治40年9月独立して東京の赤坂に助産婦業を開業する。技術が秀でており、良い産婆さんとして知られていたばかりではなく、坂田警軒の娘として教養も高く、理性と情操豊かな夫人としても知られていた。 大正14年に宮内省の嘱託となり、香淳皇后陛下のお産に携わり、平成天皇(明仁上皇)をはじめ常陸宮など多くの宮様を取り上げた。その後、奈良県の長谷寺が経営をしている長谷寺産院に勤め、生涯を助産婦の道に捧げた。

生年/出身: 1835 岡山(川上郡九名村)

開業年:

開業地、主要拠点:

師匠:

弟子: