【古写真関連資料】津山藩儒・昌谷精渓と幕末明治の写真師に関わる出来事

◆昌谷精渓
本姓は原田。名は昌谷碩。字は昌谷子儼。通称は昌谷五郎。別号に無二三道人、寄々園主人。江戸時代後期の儒者。寛政4年、川上郡九名村の庄屋を務めた坂田家生まれ。郷里備中の伊達北山、筑前の亀井南冥(広瀬淡窓の師)に学んだ。のち江戸で佐藤一斎や林述斎に師事し、昌平黌に入学。文政7年、美作津山藩儒となり、文武稽古場開設に努めた。安政5年、死去。墓は、井原市西江原町・正雲寺にあり、撰文は坂田警軒( 山本讃七郎 坂田待園 山鳴清三郎 と関係がある)が書いた。子の昌谷千里は津山藩士、明治司法官、大審院判事。孫の昌谷彰は内務官僚、官選県知事、樺太庁長官。

阪谷朗廬は、父親の転勤に伴って11歳で江戸に移転し、同郷の津山出身である朱子学者の昌谷精溪に入門。

岸田吟香は、嘉永6年、津山藩儒・昌谷精渓の赤松塾に入門、その紹介で林図書頭に入門。

宇田川準一は、文久元年、蘭学者・坪井信良に医学、蘭学をまなぶ。儒学者・昌谷精渓・ 昌谷千里には漢学を、川本幸民に洋学を学んだとされる。