
名は清水直。字は清水子礼。号は清水蕪軒。浅草の「瑞穂屋」として名を馳せたことから、瑞穂屋卯三郎とも呼ばれた。父は醸造業を営む町場村名主清水弥右衛門誓一。母は壬生浪士組隊士、庄内藩新徴組取締役・根岸友山の妹。芳川波山に漢学を学んだ後、箕作秋坪(岸田吟香、宇田川準一、宇田川興斎などと関わった人物)に蘭学を学んだ。嘉永7年、筒井政憲の供人として下田でロシア全権大使のプチャーチンに会った。嘉永2年、江戸に出て、洋学の習得を目指し、佐倉の蘭法医、佐藤泰然(松本良順、林董の父。写真師・佐藤福待の養父。須田泰嶺の師)のもとで蘭語を教わる。安政6年、横浜で親戚の異人相手の大豆商店を手伝いながら、英語の必要性に気付き、通詞(万延元年遣米使節)の立石得十郎・立石斧次郎らから英語を教わる。 万延元年、英語辞典『ゑんぎりしことば』を発刊。文久3年、薩英戦争の際には、幕府の許可を得て、英国軍艦に同乗し、英国側通訳として和平に尽力。英国艦船に拘束されていた薩摩藩の五代才助、松木弘安を保護し、実家や親戚宅で匿ったりした。慶応3年、箕作秋坪の勧めにより、パリ万国博覧会に日本人商人として唯一の参加・出品を行う。その折は、徳川昭武を首班とする幕府の万博参加使節団(渋沢栄一も随行)と共に渡欧。パリ万博で卯三郎は檜造りの茶店を造り、3人の芸者に給仕や芸をさせ、ひときわ人気を集め、ナポレオン3世から銀メダルを授与された。パリ滞在中には、商取引の齟齬によりフランス人商人から訴えられ、裁判を経験した。
万博の後、欧州の学問、工芸を学び、アメリカを経由して帰国した。この頃、写真師の中島待乳は、日本橋区本町穂積屋・清水卯三郎から漢訳の写真書を入手。
慶応4年、帰国後に浅草に「瑞穂屋」を開店し洋書の輸入を皮切りに貿易商として活躍、翌年、店を日本橋に移転。その傍ら印刷機を輸入して出版業も始め『六合新聞』を刊行し海外事情を紹介した。その他、すべての歯科材料が輸入品だった1880年代に歯科材料の輸入販売で活躍したことで知られ、『歯科全書』などの出版も行った。明治5年、『博覧会ヲ開ク之議』という建白書を政府に提出。その内容とは博覧会を開催して天下万民の見識を広め、産業をさかんにして英仏の右にでることが私のたっての願いなのです。我が国の技術者たちは、一度 博覧会で西洋の機械に触れれば、たちまち知識も技術も高まって、かの国の力を奪う事になるでしょう彼は博覧会を開くことにより、日本が貿易によって栄える道を切り開き、また西洋の製品の実物を見せることで、多くの日本人を触発し、これからの日本が、西洋の製品をそのまま輸入するだけでなく、西洋の技術を身に付け、自ら製品を作ることが出来る国にならなければならない、と提唱した。政府も「博覧会を開くの見込み、実に見事なり」と評価。文部省や工部省に回覧した。明治10年、『第一回内国勧業博覧会』を開催。当時最新式の西洋の機械が展示された。卯三郎の提言は政府の政策を先取りする先見性に満ちたものだった。明治7年、英国の化学の入門書を翻訳した『ものわりのはしご』を出版。また仮名文字論者としても知られ、明六社の機関誌『明六雑誌』に、ひらがなの普及が、国民全体の知識や教養の向上に役立つと主張した。この考えに賛同した学者達と「かなのとも」という会を発足させ、機関誌『かなのみちびき』を創刊し、仮名文字論を展開した。1899年には『わがよ の き 上』を書き残したが、これらは全て仮名文字で記されている。明治43年、死去。埼玉県羽生市北の正光寺にある清水卯三郎の墓には「志みづ うさぶらう の はか」と記されている。