【古写真の調査後売却】甲州財閥 第十銀行頭取・佐竹作太郎(写真師・鈴木真一。鶏卵紙、台紙貼付)

【古写真の調査後売却】甲州財閥 第十銀行頭取・佐竹作太郎(鶏卵紙、台紙貼付)

佐竹 作太郎(さたけ さくたろう、弘化2年3月15日(1845年4月21日) – 大正4年(1915年)8月16日)は、京都府出身の山梨県選出の衆議院議員、第十銀行頭取、実業家。山城国愛宕郡小出石村(後の京都府愛宕郡大原村、現在の京都市左京区)に、父「宇右衛門」の長男として生まれる。勤皇の士であった藤村紫朗が京都で幕府側からの襲撃を受け、負傷した藤村は佐竹宇右衛門宅に助けを求め傷が癒えるまでの数か月間に渡って同家にかくまわれており、これが佐竹と山梨県との関わりのきっかけとなっている。
明治維新後、新政府に出仕した藤村が明治6年(1873年)2月28日に山梨県権令として着任した後、佐竹は従者として山梨県入りし、しばらくは藤村の執事として県庁に勤めたが、藤村の山梨県内への銀行設立構想から同年11月24日に山梨県為替方を命ぜられた島田組に入り金融業の実務を修得し、銀行類似会社である興益社の明治7年(1874年)6月1日の開業とともに支配人となり、社長である栗原信近の薫陶を受けつつ業容拡大に尽力し、明治9年(1876年)(9月20日)には第一国立銀行に簿記伝習のため出向している。
その後、明治10年(1877年)4月15日に第十国立銀行が甲府常盤町で営業を開始すると支配人となり、明治14年(1881年)1月7日に取締役兼支配人、明治15年(1882年)1月7日には初代頭取を務めた栗原信近の後任として第二代頭取に就任し、大正4年(1915年)8月16日に逝去するまでの33年間務めている。また、明治21年(1887年)に山梨県会議員、明治22年(1888年)に甲府市会議員、明治35年(1902年)から明治45年(1912年)まで衆議院議員を務めている。また、実業面においては、東京電燈社長、カブトビール、大阪高野鉄道の取締役、東武鉄道、富士身延鉄道の監査役となっている。
逝去後の大正13年(1924年)5月には甲府市の若尾公園に銅像が建立されたが、金属の供出により、昭和18年(1943年)3月10日に同じ若尾公園内に建つ若尾逸平の銅像とともに献納されている。また、終戦後、若尾公園の敷地は山梨英和学院の敷地となったため、銅像の台座も失われている。
親族二男:佐竹次郎(富国生命保険社長、昭和電工社長)娘婿:中村藤一(日本製粉社長)

◆写真師・鈴木 真一(初代)
本名は高橋勇次郎。 天保 6 年、高橋文左衛門の三男として生まれる。 高橋家は代々、農業と漁業の兼業の家であった。 天保 8 年、父、母が相次いで亡くなり、家を継いだ長兄を助け、家業を手伝った。 安政元年、下田(大工町)の資産家で質物と荒物商・鈴木與七(屋号・大坂屋)の婿養子となる。 安政元年 11 月 4 日、安政の大地震が起こり、鈴木家は甚大な被害を受け財産を失った。 のち、旧宅の瓦礫を取り除いている時、義父・鈴木與七が土中に埋めた小判等が流失を免れて出てきた。 これを元手に家は修造し、また雑貨商を営むことになるが、あまりうまく行かなかった。 のち、養蚕業に転じたが、一時的な儲けに終わった。 慶応 3 年(2 年とも)、単身で横浜に出る。 下岡蓮杖と知り合いであったため、横浜で下岡蓮杖の元へ訪ね、弟子となった。 横山松三郎と共に、下岡蓮杖の手助けをしながら写真術を学ぶ。 明治 6 年、独立し、横浜弁天通六丁目弁天橋前と本町の三叉路に開業。 明治 7 年、下岡蓮杖の門下・岡本圭三が長女・のぶの婿となる。 (岡本圭三は、後の二代目鈴木真一) 明治 7 年、北白川宮、小松宮を撮影。 明治 10 年、第一回内国勧業博覧会に皇族の肖像写真等を出品し、花紋章を受章。 明治 12 年、金井弥一が学んでいる。 明治 14 年、東京麹町区飯田町二丁目五十三番地(九段坂)に支店を開業し、岡本圭三に任せた。 岡本圭三に 2代目鈴木真一の名前を継がせた後は鈴木真と名乗った。 明治 15 年、田中美代二が学んでいる。 明治 16 年、成田常吉が学んでいる。 明治 17 年、横浜真砂町一丁目一番地に本店を移転。 この頃、陶磁器に写真を焼き付ける技術を開発し、外国人向けの商品として販売した。 また、風景写真と人物や、人物写真 2 点を合成した「ハテナ写真」が評判となった。 明治 30 年、隠居し、長男・鈴木伊三郎へ家督を譲る。 伊三郎も「鈴木真一」と改名することになったため、岡本圭三(2 代目鈴木真一)と重なることとなった。 明治 35 年頃、岡本圭三は、二代目・鈴木 真一の名を返上している。 隠居後は礫庵久米仙人と称して、東京小石川小日向台町「礫庵」で過ごす。 大正 7 年、死去。 なお、写真館(九段坂)はのちに佐藤福待中島待乳の弟子)が購入し、佐藤写真館を開業した。のち長谷川保定に譲っている。