
「東上鉄道は先に南北縦貫、毛武、上越、京越、日本興業の各鉄道において計画をしたが、当事の状況では未だ其の目的を達するには至らず、沿道の諸町村は多年の期待に反し、文明の恩恵に浴することが出来ないことを嘆きが増してきた。 ここに、内田三左衛門氏と10名の有志が決起し、東上鉄道株式会社を設立して、この鉄道を敷設するのに一日でも放っておいてはいけないと東奔西走し、同志を説得し一年余で漸く発起人34名が揃い、遂に会社を設立することが出来た。 すなわち、東京渋川間74マイル(118km)、更に越後長岡までを予定線として明治36年(1903年)12月に申請をし、明治41年(1908年)10月に当時の内閣総理大臣桂太郎の許可指令を得た。 是によって、直ちに敷設工事を起工し、竣工を急いだが、険しい地形に阻まれて工事は遅々として進まなかった。 然しながら、幾多の苦しみや難関を排し遂に、大正3年(1914年)5月全ての工事が竣工した。 それ以来、交通運輸に広く用いられ今日の盛況をみるに至っている。 これは言うまでもなく、発起人諸氏の惨憺たる苦心によるが、その中でも特に内田氏の強烈な公共心と高潔な犠牲的精神によるところがが大きい。 内田氏は天文年間にあった川中島の戦の時、上杉謙信の直属の部下であった越後の勇士である宇佐美駿河守定行の子孫であが、故があって幼い時に上田姓を名乗るようになった。 祖先の血を享けたことで当然ではあるが、意気高く志も強く、その行状は一般の人とは異なっている。 特に本鉄道創設に当っては家財を食潰すことも顧みずに巨資を投じ、一心にその完成の為に尽力をした。 その功績は顕著なので本鉄道と共に沿線の諸町村の永く記念すべきものである。 ここに有志が相談しあって石碑を建て将来に告げようとするのも、故が無いわけではない。」「この記念碑は、明治三十六年(1903)に創立申請された東上鉄道株式会社の由来と、建設にいたる経緯が記された石碑であり、大正八年(1919)五月に上板橋駅に建てられました。
東上鉄道は、当時の小石川区下富坂町(文京区)を起点として、巣鴨町-上板橋村-川越町-児玉町-高崎市を経由し、渋川町(群馬県渋川市)に至る路線が計画されていました。 発起人総代は千家尊賀ですが、その実現のために尽力したのは、板橋区蓮根で醤油醸造業を営んでいた内田三左衛門でした。碑文には内田が「東奔西走同志ヲ勧説」し、「千辛万苦百難ヲ排」し、開業に導いたという経過が刻まれており、その功績を顕彰する内容となっています。東上鉄道は、東武鉄道社長根津嘉一郎の参画により、大正三年に池袋-田面沢間が開通し、同年九月に東武鉄道に合併して東武東上線となりました。その後、この石碑は、上板橋駅から東上線池袋駅に移されますが、駅周辺の開発にともない移転を重ね、現在に至っています。」東上線(とうじょうせん)は、東武鉄道の鉄道路線のうち以下の総体である。1890年代から1900年代(明治30から40年代)にかけて、日本興業鉄道(小石川下富坂町 – 高崎間)[2]・京越鉄道(池袋 – 川越間)[2](ともに未成線)など、川越の周辺で数多くの鉄道が企図・発起されたが、申請却下や免許失効などで実現しなかった。日本興業鉄道の発起人には、後に東上鉄道の発起人になる内田三左衛門や千家尊賀が名を連ねていた。内田の出地は川越の豪商。千家の出地は出雲大社の宮司の家柄で兄千家尊福が貴族院に4回当選し、埼玉、静岡、東京府知事(官選)を歴任、1906年(明治39年)に第一次西園寺内閣の司法大臣に推されている。一方京越鉄道の発起人には川越電気鉄道創業者の綾部利右衛門や新河岸川・福岡運河(現・ふじみ野市)の回漕店福田屋の星野仙蔵らが名を連ねていた。星野は川越商業銀行取締役や黒須銀行を経て1904年(明治37年)に衆議院議員に当選し、この時同じく当選した初代根津嘉一郎から東上鉄道の計画を聞き、協力を惜しまなかった。東上鉄道創業当初は監査役に就任したようである。日本興業鉄道計画が絶たれた後、千家尊賀と内田三左衛門ほか数名は新たに東上鉄道を発起した。1903年(明治36年)12月23日、逓信省にて東上鉄道の仮免許申請書を提出した。途中出資者が集まらず、紆余屈折を経て、後に東武鉄道社長となった根津嘉一郎に会社創立を託すことになった。後述の通り、発起人たちは東京から新潟県長岡へ至る建設構想を有していたが、当面の終点目標(仮免許申請区間終点)である渋川町が属する群馬県の旧国名が上野国(上州)であることに基づき、会社名は東京と上野国(上州)それぞれの頭文字を取って「東上」とした。東上鉄道は1908年(明治41年)10月6日、東京府北豊島郡巣鴨町字氷川(現・東京都豊島区巣鴨) – 埼玉県入間郡川越町(現・埼玉県川越市) – 比企郡松山町(現・埼玉県東松山市) – 児玉郡児玉町(現・埼玉県本庄市)および群馬県高崎市を経て群馬県群馬郡渋川町(現・群馬県渋川市)に至る鉄道の敷設仮免許を受けた[3]。ついで1911年(明治44年)11月11日に東上鉄道創立総会が開かれ、取締役社長に根津嘉一郎が就き、本社を東京府東京市本所区小梅瓦町(現: 東京都墨田区押上一丁目)の東武鉄道本社に置いた。資本金は450万円。実際の東上鉄道本社は川越に置かれたが、根津嘉一郎が東上鉄道の経営に乗り出すと、本社登記地のみ押上の東武鉄道本社に変更された。