
画家、浮世絵師として著名。父は幕臣江戸御蔵方組頭・小林茂兵衛。母は知加子。9人兄弟の末子。幼名は小林勝之助。文久2年、父が亡くなり元服。兄はすでに別居や他界していたため、小林清親を名乗り家督を継いだ。元治2年、徳川家茂上洛(第二次長州征討)に随行。大阪に留まる。慶応4年、鳥羽・伏見の戦いに加わる。維新後、徳川慶喜らを追い静岡に下る。鷲津村に暮らしていたという。明治3年、最初の妻きぬと結婚、2女が生まれる。明治7年、東京に戻る。この頃、下岡蓮杖について写真術を学んだという。絵師を志し、河鍋暁斎や柴田是真らと席画会を共にしたと言われる。チャールズ・ワーグマンに西洋画法を習ったとされていたが、2010年代では否定的に取られており確証はない。 明治9年、版元大黒屋松木平吉から「東京江戸橋之真景」「東京五大橋之一両国真景」、『東京名所図』シリーズを版行。「光線画」と呼ばれ、人気絵師となる。明治14年、『團團珍聞』に入社しポンチ絵(社会風刺漫画)を、木版錦絵や石版画、銅版画による新聞挿絵でも表現した。明治16年、きぬと離婚。明治17年、田島芳子と結婚、3女が生まれる。 明治17年から明治18年、「近接拡大法」と呼ばれる、近景を極端に大きく描いた、歌川広重『名所江戸百景』の影響が顕著な『武蔵百景之内』全34図を版行。明治27年、團團珍聞を退社し、「清親画塾」を開く(1896年に閉塾)。『淡墨絵独習法』『毛鉛画独稽古』[注釈 8]等の教本も出版している。明治33年、『二六新報』に入社。連載記事掲載を止めてもらう為の賄賂を受け取ったとして、妻・小林芳子と共に逮捕される。1903年に裁判を受け、その後、『二六新報』を退社。大正4年死去。法名・真生院泰岳清親居士。墓は台東区元浅草の竜福院。墓地には渡辺庄三郎建立による「清親画伯之碑」がある。井上安治、田口米作、金子光晴、土屋光逸、三田平凡寺など画家や詩人として著名な弟子がある。直接の師弟関係は無いが、小倉柳村、野村芳国などは師と仰いでいた。
五女・小林哥津(小林哥津子)は、仏英和高等女学校在学中に平塚雷鳥らの『青鞜』同人となり、編集に携わった。
生年/出身: 1847 東京(江戸本所)
開業年:
開業地、主要拠点: 東京
師匠: 下岡 蓮杖
弟子: