下岡 蓮杖(しもおか れんじょう)

下岡 蓮杖写真師

父は相州浦賀船改御番所勤番で判問屋・桜田与惣右衛門。三男。通称は久之助。文政 11 年、下田町岡方村の下土屋善助(屋号・才善)の養子となる。 しかし、数年で養父母と死別し、実家に戻る。 天保 7 年、下田のお店で奉公していたが持続せず、江戸へ出て絵師を志す。 しばらくは師を求めながら、下田宮本氏の出であるという縁で鉄砲洲の出雲町七番地(銀座 8 丁目)の酒屋・田野宇吉(加賀屋)を頼った。後に日本橋横山町の老舗足袋問屋に丁稚奉公。 しかし、志と違う仕事を続けられず、帰郷する。 天保 8 年頃、下田奉行所の砲台警備の足軽として採用された。 萩野流の砲術を中村藤一郎より学び、大砲を撃つ訓練なども行っていた。 砲台監督の畑繁八郎(畑藤三郎)により、弟である狩野董玉の師匠・狩野董川を紹介してもらう。 弘化元年、紹介状をも持ち、再び江戸に向かい狩野董川への弟子入りが叶った。 のち、董圓の号を与えられる。 弘化 2 年頃、三田島津家下屋敷(薩摩藩・旗本の家とも)に赴いた際、偶然に銀板(ダゲレオタイプ)写真を見て、絵筆では敵わない技術に驚き、写真術修得を志したとされる。 師の狩野董川に許しを得て、門下を離れた。 長崎へ写真探求を考えたが諦め、伯父の臼井正蔵(臼井伝八)を頼り、浦賀平根山砲台勤番として再び足軽となる。臼井伝八の長女・臼井美津は、下岡蓮杖の妻(先妻)。一時、 臼井美津の弟・臼井秀三郎はのち写真師となっている。

弘化 3 年、ジェームス・ビッドル提督率いる米国東印度艦隊の帆船軍艦 2 隻が浦賀に来航(浦賀事件)、 それを描いている。この時、浦賀奉行・大久保因幡守より、「幕府の命により、軍艦の様子を絵図として 書き取るように」と申し付けられた。 嘉永 6 年、ペリー来航。この頃まで浦賀に在したが写真探求のチャンスは無かった。もともと下岡蓮杖が写真術に興味を持ったのは、江戸幕府奥儒者・成島司直から情報を聴いたことによるという。
嘉永 7 年、ペリーが再び来航。その際、従軍写真家エリファレット・ブラウン・ジュニアが同船していた が、写真術を学ぶことはできなかった。 安政年間、下田玉泉寺がアメリカ領事館として使われた際に、御馳走係下番役として勤める。 このとき、オランダ人通詞・ヒュースケンから写真術を教わり、下田閉鎖に伴って江戸、横浜へ移った。 横浜でアメリカ人雑貨商、ラファエル・ショイヤーの下で雇われ、夫人(アンナ)から洋画を教わり作品 を残している。また、アメリカ人営業写真家、ウンシン(ジョン・ウィルソン)の婦人(ラウダー)を経 由して写真術を学んだ。 のち、自らの作品(絵)と好感して写真機材を手に入れ、独学で写真術の研究を行う。 文久 2 年頃、横浜野毛で開業。のち、横浜弁天通りに移る。 元治元年頃、横山松三郎が下岡蓮杖の弟子になっている。 慶応元年、一旦店を閉じて、妻子を連れて下田に帰省。 慶応 2 年、実子・東太郎が誕生。 慶応 3 年、長女・よし(尾形乾山に嫁ぎ、長女が尾形奈美)誕生。 慶応 3 年、再び横浜に戻り、馬車太田町角駒形橋の東詰(現在の中区太田町 5 丁目 77 番地東角)に家屋 を建築して写真館(相影楼・全楽堂)を開業。1 階で錦絵等の絵画を販売し、2 階を撮影場とした写真館 を建設し営業。 明治元年、弁天通り二丁目横通り南仲通り寄りにも写真館を建設したが明治 3 年に類焼。 写真以外に石版印刷、乗合馬車、コーヒー店、ビリヤード、牛乳販売等も取り組んだが多額の負債を負っ た。なお、 日本最初の一般営業鉄道は、横浜居留地と築地居留地を繋ぐものであり、下岡蓮杖が走らせた乗合馬車も同区間にあった。この頃、宣教師の木村熊二は写真師・下岡蓮杖の弟子となり身を隠した。
明治 3 年、弟子の横山松三郎と日光山の写真撮影旅行を行っている。 日光東照宮の輪王寺書役であった片岡久米(片岡如松)は、この影響で写真師となっている。明治7年、画家で著名な小林清親は、下岡蓮杖について写真術を学んだという。 明治7年、岸田吟香松崎晋二は 陸軍省の依頼で台湾の役、台湾石門などに従軍しており、 岸田吟香下岡蓮杖には台湾の情報などを伝えていたという。明治 8 年(または 9 年)、東京・浅草公園五区四九番地に移転。書割等の作成をした。 この頃、中島待乳が教えを受けに訪れ蓮杖から写真機附属品等を譲り受けている。 明治 27 年、大日本写真品評会会員。 明治 39 年、浅草公園五区の店は息子の下岡東太郎に任せた。明治36年、洋画家の白滝幾之助は、学習院女子部の築地水交社発卯園遊会で発表される公演の背景画として山本芳翠が下岡蓮杖に依頼した依頼画の制作に参加。この依頼は依頼主である山本芳翠、下岡蓮杖のほか和田三造、北蓮蔵、玉置金司、湯浅一郎などが手伝った。大正元年、東京府から表彰されている。 大正 3 年、死去。笠原彦三郎は、書面などで森本蓼洲山田真柳江崎礼二前川謙三等の写真師から撮影技術などを情報交換していた形跡が残っており、下岡蓮杖とも交流があった。

写真師・下岡太郎次郎は弟子で養子。宮内省写真部に勤務した下岡喜代松は次男。写真師・中島嘉助下岡蓮杖の門人で、下岡蓮杖の長兄・桜田安太郎(写真師で下岡蓮杖の門人)の妻・中島くみは、中島嘉助の妹。

生年/出身: 1823 静岡(伊豆下田町中原町)

開業年: 1862

開業地、主要拠点: 神奈川(横浜)

師匠:

弟子: 横山 松三郎 臼井 秀三郎 桜田 安太郎 船田 万太夫 鈴木 真一(初代) 江崎 礼二 滝本 平三郎 四身 清七 桜井 初太郎 平井 玄章 西山 礼助 水野 半兵衛 成瀬 又男 勅使河原 金一郎 下岡 喜代松 下岡 太郎次郎 小林 清親 丹後 寛一郎 木村 熊二