

◆姉小路良子
〔学統〕渡邊重石丸 蒲生重章 伊達千廣 跡見花蹊
安政3年(1856)4月4日~大正15年(1926)5月。〔享年〕71。
姉小路公前の娘にして、勤王家姉小路公知の妹。明治10年10月、宮内省皇后職に入り、同11年12月権掌侍に、21年11月掌侍に任じられる。以来、聖上皇后両陛下の恩寵を賜り、日清戦役の際、皇后宮の広島行啓にも供奉。明治35年1月権典侍に進み、大正3年8月従三位に叙せられ、同4年勲四等に叙し寳冠章を賜う。同年12月に退官。才気煥発で知られ、国文を渡邊重石丸に、漢文を蒲生重章に、和歌を伊達千廣に、書画を跡見花蹊に学ぶ。
◆姉小路公知
江戸時代後期の公家。姉小路公前の子。官位は正四位下・右近衛権少将。朔平門外の変で暗殺された。維新後に生前の功により正二位を追贈。天保10年12月25日(1840年1月9日)、公卿・姉小路公前の子として誕生。安政5年(1858年)、日米修好通商条約に反対し、廷臣八十八卿の指導者として活動した。文久2年(1862年)9月、右近衛権少将となり、幕府への攘夷督促の副使として、正使三条実美と共に江戸に向かい、勝海舟と共に江戸湾岸の視察などを行う。のちに国事参政となり、三条と共に攘夷派の先鋒となったが、文久3年(1863年)5月20日の夜半、深夜朝議からの帰途、京都朔平門外の猿ヶ辻で3人の刺客に襲われる。扇を振い、刀を奪うなどして奮戦して撃退するも、頭と胸に重傷を負い、帰邸後の翌日21日未明、自邸にて卒去(朔平門外の変)。享年25(満23歳没)。墓所は京都市上京区の清浄華院。
◆丸木利陽(写真師)
旧姓は竹内惣太郎。竹内宗太。父は竹内惣太郎(竹内宗十郎)。 明治維新後、福井藩士・丸木利平の養子となる。 明治 8 年、東京に出て二見写真館に写真を学ぶ。 明治 13 年、独立し、東京・麹町(相馬邸内)に丸木写真館を開業。 明治 15 年、成田常吉が学んでいる。 明治 20 年、嘉仁親王(後の大正天皇)が近衛連隊兵営訪問の際に、親王、皇族、将校等との集合写真の 撮影に指名された。 明治 21 年、前川謙三が学んでいる。 明治 21 年、小川一真とともに明治天皇、昭憲皇太后を撮影。 明治 22 年、開業地に国会議事堂が建設されることになり、新シ橋外に移転。 明治 23 年、「丸木式採光法」を発明し、第 3 回内国勧業博覧会で 3 等賞を受賞。 明治 42 年、日英博覧会に出品。 大正 2 年、宮内省嘱託。 大正 4 年、東京美術学校(現・東京芸大)の写真科創設に携わる。 小川一真、黒田清輝とともに帝室技芸員として大正天皇も撮影している。 東京写真業組合の組合長も務めた。 大正 12 年、死去。 門下に小川一真とともに宮内省写真部を設立した東京芝白金の前島英男(前島写真館)もいる。写真師・山本誠陽は弟。