
◆ 奇術師 ・帰天斎正一
生年は天保14年。本名・波済粂太郎。初め3代目林家正蔵門の噺家となり、林家正楽を名乗った。のち奇術師として独立し帰天斎正一を名乗った。明治初年、パリへ渡り西洋奇術を習得。明治7年に帰国。明治9年ごろから寄席へ出て、ハンカチ焼き捨てや洋術首切りなどの西洋奇術で人気を博す。明治22年、宮中御学問所において天覧の栄を賜る。晩年の活動は明らかになっていない。ただし、明治30年代に大阪の2代目に名前を譲り引退したものと思われる。大正6年ごろは長野善光寺のほとりで易占をしていたという言い伝えもある。
明治10年頃、中島待乳は幻灯機の製造を試み、手品師・帰天斎正一から注文を受けている。明治17年1月27日の読売新聞に、写真器械薬種商・浅沼藤吉氏の第三回起業会で府下有名の写真師、薬種問屋の人々等六十余名参会されたという記事がある。また、明治21年7月3日の奥羽日日新聞に、仙台東一番丁の写真師・高桑義守方に宿泊したという記事が載っている。