三崎 栄子(みさき えいこ)
三崎栄とも。古い資料に三崎栄女という表記があるが、女性という意味を表しているのか、名前なのか不明。三崎吉兵衛の妻。舎密局の矢田太郎に学んでいる。三崎吉兵衛の死後も写真館を営んだが、玩具人形装飾品を制作しアメリカに輸出なども行った。息子・三崎寅吉も父とともに営業を手伝っていた。
高野 清(たかの せい)
女性写真師。
高谷 静尾(たかや しずお)
父・高谷克三郎の長女。 兄は高谷健三。 明治 41 年、二条河原町の分館を経営し、主に女性の撮影を行った。大正14年には写真師を辞め、結婚し松江市へ転居している。
高谷 由起(たかや ゆき)
高谷克三郎の妻。本名は高谷由幾といい、父は長州藩医・高谷健齋。長女として生まれる。高谷由起という名で写真師として活動している形跡がある。明治20年、栗田克三郎(のち高谷克三郎)を婿養子として婚姻。明治20年頃、高谷克三郎は京都寺町通松原に開業。のち、長男・高谷健三が継いだ。また長女・高谷静尾は二条河原町の分館を経営し、主に女性の撮影を行っている。
鈴木 千里(すずき せんり)
女性写真師。明治初年、東京新吉原揚屋町で開業。明治10年の新吉原遊廓地図には、揚屋町の箇所に「写真師千里」と記載されている。明治12年の見立番付に「年寄ヨシワラ千里女」と記載されている。明治13年の見立番付に「年寄ヨシワラ千里女」と記載されている。のち、神田小川町(東明館勧工場前)の鈴木攓雲から事業を譲られ、継承している。鈴木攓雲との血縁関係は不詳。近衛一二連隊御用と書かれた広告が残っている。明治20年頃、上海帰りの写真師鈴木千里が日本で初めて「鋳造ゴム印」を伝えたという説が有るが、印判師・藤木節斎(鈴木千里と姻戚関係)が明治15年に横浜の外国人に伝授されたという説もある。 藤木節斎は横浜の印章業者であり、明治15年頃、横浜居留地でケヤコ-フという人物からゴム印製法を口述で伝授された。大正初期に神田万世橋(花房町)に藤木美術店を開設して郷土玩具(こけしが中心)を扱い、こけし収集を広めた人物として著名。
三浦 れい(みうら **)
不詳。女性写真師。明治31年大日本写真品評に名古屋支部会員として列記されている。
三輪 ウタ(みわ うた)
別名は三輪歌、三輪歌女。 三輪松兵衛の娘。 はじめ三本松(加茂川西荒神口)の舞妓だった。 父が東川端に開業すると女性写真師となり、京都で有名になる。 明治 10 年、第一回内国勧業博覧会に出品。
中野 巨斗(なかの こと)
女性写真師。明治 11 年、長野新聞に広告が出ている。
山本 古登(やまもと こと)
女性写真師。写真館には撮影する客のための衣装を多く揃えていたという。
塙 芳埜(はなわ よしの)
塙吉野、塙芳野、花輪芳埜、花輪吉野、花輪芳野の表記もある。本名は「大澤はま(大浜はま)」。北庭筑波の門人。明治 4 年、片山精三が学んでいる。 明治 9 年、築地新富座裏手に開業。 歌舞伎役者・澤村源之助の義理の姉。 尾上菊五郎など歌舞伎俳優の撮影を専門としていたという。豊原国周によるカラーの木版画で女性写真家として描かれている。明治 17 死去。
島 隆(しま りゅう)
父は桐生市上久方の岡田吉右衛門。長女として生まれる。田村梶子の松声塾にて書道、和歌を学ぶ。田村梶子は同郷の歌人で、幕府の右筆として江戸城大奥に15年間務めた人物。帰郷後に寺子屋松声塾 を開いている。天保11年頃、一橋家の祐筆になるため江戸に上る。のち通訳などの仕事で同家に出入りしていた島霞谷と結婚。画家で明治政府書記官であった夫の島霞谷から写真の手ほどきを受ける。慶応年間、岩橋教章は、戦乱を避けてきた写真師・島霞谷、隆夫妻を自宅に住まわせ、写真術の手ほどきを受けた。明治元年、島霞谷の肖像写真を撮影。これが女性が撮影した日本最古の写真となる。人物や風景などを撮り続ける一方、夫が東京・下谷で経営していた写真館を手伝う。明治3年、島霞谷が亡くなったため故郷の桐生に帰り、写真館を経営した。明治32年、死去。
新井田 トミ(にいだ とみ)
新井田富、新田トミ、新田富の表記もある。女性写真師。手札写真を印刷し販売していた。
柳橋 春(やなぎばし はる)
明治初期に東京で開業している。女性写真師。
澤江 親(さわえ ちか)
女性写真師。
筒井 ハナ(つつい はな)
筒井花と記載された資料もある。父の筒井仙幽は大工であった。知人であった下岡蓮杖の家(浅草公園五区四十九番地)を建築している。筒井仙幽は、娘(筒井ハナ)に「女性でも技術や芸を身に着けるべき」という考えがあり、やがて筒井ハナは、写真を習ってみたいと思うようになった。筒井仙幽は娘を連れ、下岡蓮杖の家を訪ね、筒井ハナを弟子にしてもらうよう申し込んだ。下岡蓮杖は、自分ではなく、評判の高い中島待乳の写真館を訪ねて承諾を取った。筒井ハナはその日から中島待乳の家に住み込み写真の修業を積む。明治 39 年、筒井仙幽の写真館を継ぎ、開業。大繁盛したという。大正12年、関東大震災で行方不明となった。中島待乳の弟子に「筒井 守藏」という名があるが、詳細や関係は不明。
葛城 悦(かつらぎ えつ)
女性写真師。如春軒の館名が残る。
原田とく(はらだ とく)
女性写真師。本名は原田瀧栄。明治17年4月24日、大阪朝日新聞に公告がある。
原田 英(はらだ えい)
女性写真師。
勢喜(せき)
女性写真師。牧一造の妾であったという。明治10年、牧一造は新橋出雲町に支店を開設し支店は勢喜に任せていたという。
鹿内 モヨ(しかない もよ)
女性写真師。夫は鹿内徹。 長男にフジサンケイグループ会議議長・鹿内信隆がいる(母は鹿内モヨではなく養子であると記載された資料もある)。 ほかに男3人、女2人の子供がいる。鹿内家は明治初期に南部県より増毛に渡ってきたヤン衆(ニシン漁などに雇われる人材)であった。鹿内徹は日露戦争に出征した際に写真班に配属され、撮影技術を身に着ける。 のち、写真技術を生かして留萌町で写真館を開業し、繁盛したという。 北海道夕張郡由仁町に移転してからは歯科医となり、主に妻の鹿内モヨが写真館を営んだ。 写真館に歯科医院を併設、“鹿内歯科医院写真部”という名で、モダンな二階建て家屋を建てたという。鹿内徹は日高地方の奥地に巡回診療に出かけることが多く、ついでに金やクローム鉱探しに熱中し、そちらのほうが時間を費やしたようである。昭和初期、鹿内徹は神道とユダヤ教を融合させたような「鹿内教」という宗教に熱中した。
秋尾 園(あきお その)
祖父は秋尾善兵衛利恭(剣術家、微塵流剣術の師範)。父の秋尾利義は沼田藩士(70 石)で、幕府陸軍馬術指南役、帝国陸軍馬術教官、藩校の剣術指南、微塵流の師であった。 明治 6 年、父が陸軍士官学校で馬術を教えていた頃の同僚に洋画家の川上冬崖・小山正太郎がおり、この時期に洋画を知ったと思われる。 浮世絵や、フェリス女学校で英語を学んだ形跡もある。 明治 9 年、工部美術学校に女子入学規定が整備されると第一期生として入学し、幾何学・遠近法・飾画・ 論理影法・模写・写生などを学ぶ。 全 6 名の女子生徒はほかに山下りん、神中糸子、大鳥雛、山室政、川路花で、画家として大成した人物も あり、そのうち最年少であった。 明治 10 年、「画学生進歩表」では第二級の成績を収めたとある。 明治 13 年、写真師・中島待乳と結婚し、工部美術学校を退学。 その後は中島待乳の幻灯機製造に関わり、彩色・下絵の製作を行った。 晩年は牛込区弁天町に移住したという。 昭和 4 年、死去。墓所は多磨霊園。 甥の鈴木定次は小西六(杉浦六三郎、のちコニカ)で感光剤・フラッシュを研究。弟の秋尾新六は写真師であり、在家日蓮宗浄風会創立者。 秋尾新六の妻は秋尾勢以 。甥の勲(秋尾新六の次男、のち中島待乳の養子)は、陸軍工兵大尉として航空写真に従事していた。
秋尾 勢以(あきお せい)
秋尾新六の妻。中島待乳の門人として「北山勢以」の旧姓で名が残る。 秋尾新六の姉は中島待乳の妻となった秋尾園。秋尾新六の次男・秋尾勲は、陸軍工兵大尉として航空写真に従事したのち中島待乳の養子となった。秋尾園の姉フミの子・鈴木定次は、小西六で感光剤・フラッシュを研究。
宮内 佐江(みやうち さえ)
写真師・宮内幸太郎の妻。宮内佐江も中島待乳の弟子として記載がある。宮内幸太郎の母は、中島待乳の妹。
森山 こう(もりやま こう)
松前藩・松前氏の出という。森山与一郎の妻。 明治 20 年、森山与一郎の死去に伴い、写真館を引き継いだ。
矢川 れん(やがわ れん)
台紙に「矢川禮舞」「 矢川連」という表記もある。弘前の事業家の長女。矢川ミキの姉。明治 4 年、近所に田井晨善の写真館が開業された。 そこで姉妹ともに学ぶ。明治 14 年、弘前で姉妹で矢川写真館を開業。薬品調合、暗室作業による現像を担当した。姉妹写真師が経営する写真館として話題を集めた。のち矢川ミキが分家して「M 矢川写真館」を開業したため、一人で経営をした。 昭和 20 年、死去。生涯独身だった。妹・ 矢川ミキの夫「矢川友弥」は、津軽狩野派の継承者・外崎鶴幼に絵画を学び、写真師の矢川ミキと結婚し、写真術を学んだ。
矢川 ミキ(やがわ みき)
台紙に「矢川美喜」「矢川みき」「矢川幹」の表記がある。弘前の事業家の二女。矢川れんの妹。明治 4 年、近所に田井晨善の写真館が開業された。 そこで姉妹ともに学ぶ。 明治 14 年、弘前で姉妹で矢川写真館を開業。 姉妹写真師が経営する写真館として話題を集めた。のち分家して M 矢川写真館を開業し、閃光機による夜間撮影を始めた。姉は一人で 矢川写真館の経営をした。 昭和 20 年、死去。夫の岩川友弥(のち矢川友弥)は津軽狩野派の継承者・外崎鶴幼に絵画を学び、写真師の矢川ミキと結婚し、写真術を学んだ。
山岡 松子(やまおか まつこ)
中島待乳の門人として名が残る。父は著名な剣士・山岡鉄舟。長女として生まれる。 幼いころから竹刀を持ち道場で山岡無刀流の修行をした。 のち、写真師と結婚したが死別。東京日日新聞社会部の「戊辰物語」を編著。 昭和 19 年、死去。墓所は全生庵(東京都台東区谷中5-4-7、山岡鉄舟が徳川幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治16年に建立した寺院)。晩年は全生庵に住んでいたとも伝わる。結婚した写真師については特定できていない。山岡鉄舟の門下である石坂周造(慶応4年山岡鉄舟預かりの身となっている幕末の志士)の子・石坂宗之助は、山岡松子と結婚し山岡宗之助となっている。初期の資料では「山岡松子の養父」という表記があるが、後期の公的資料『人事興信録・第4版』の山岡直記の箇所に「 姉 まつ 宗之助妻」と書かれている。ただし、写真師であったという明記はない。宗之助はアメリカに 7 年間留学し、明治 15 年、小嶋良太郎・佐藤文作と内務省石油試験取調局御用掛になった人物で、 明治21年、33 歳で死去している。
五十嵐 ハル(いがらし はる)
前田荘吉とハンの長女として生まれる。半農半漁の家であった。 明治 24 年、横浜市宮崎町の三田菊地郎が経営する写真館の養女となる。 のち三田菊地郎の写真館で技師として働いていた五十嵐粂吉と結婚。 独立し、はじめ横浜野毛に開業するが火災に遭い、レンズ一本を持って避難。 明治 33 年、小田原幸 3 丁目(現在の本町 4 丁目)に写真館を開くが、当時は人通りも多くなかった小田原では商売にならず、当時の繁華街だった東海道沿い(現在の御殿場線)松田町や山北町へ出向く街頭写真として営業し繁盛した。 その後小田原に移り、再び写真館を開業。大正 3 年に夫の五十嵐粂吉が亡くなった後も営業を続け、小田原屈指の写真館となった。下岡蓮杖と知人だったという。墓所は小田原の宗福寺。
金丸 せ以(かなまる せい)
金丸せいとも表記される。金丸源三の妻。自身も同地で写真師として活動している。息子の金丸亦四郎は跡を継いだ。
古川 喜多子(ふるかわ きたこ)
不詳。