◆織田 信長
日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。三英傑の一人。尾張国(現在の愛知県)の織田信秀の嫡男。家督争いの混乱を収めた後に、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、勢力を拡大した。足利義昭を奉じて上洛し、後には義昭を追放することで、畿内を中心に独自の中央政権を確立して天下人となった。しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。これまで信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていく、画期的なものであったとみなされてきた。しかし、政策の実態などから「中世社会の最終段階」ともしばしば評され、特に近年の歴史学界では信長の革新性を否定する研究が主流となっている。
◆織田 信真
織田信長の七男・織田信高につながる家柄。
幼名は豊満寿丸、のち織田織之助。高家旗本。織田信高、織田高重、織田一之、織田高元、織田信門、織田信直とつながり、祖父は織田長孺。父は織田長孺の次男で従五位下侍従・淡路守・織田長裕。母は父 の正室・毛利高標の娘。弟は明治3年に元高家・武田崇信の婿養子となるが、明治4年に離縁した武田鐡之丞。安政 2 年、父の隠居により、家督を相続する。 その後も高家職に就任することなく、表高家衆として過ごす。表高家内の席次は第一位。 文久 3 年、将軍徳川家茂に御目見をする。 慶応 3 年、武鑑での石高 2000 石と記載されている。 明治元年、太政官より「旧旗下織田織之助本領安堵ノ儀」を、大津県へ下達される。 明治 5 年、江戸の薬種問屋・杉浦六三郎(杉浦六右衛門)の肖像写真を撮影している。明治 9 年、横山松三郎から写真館「通天楼」を譲り受け、新橋門前町から上野池之端に移り、横山松三郎の通天楼を改築し、機材や弟子も引き受け、写真館を開いた。秩禄処分後は写真師として生計を立てていた。
◆織田 信学
織田信長の次男・織田信雄に繋がる家柄。
出羽国天童藩2代藩主。通称は織田八百八、兵部。官位は従五位下・伊勢守、兵部少輔、左近将監。初代藩主・織田信美の長男。母は戸田忠翰の四女・戸田朝子。正室は相馬益胤の娘。継室は相馬益胤の娘・相馬糸子。子女は6男9女で、四男は織田信敏、六男は織田寿重丸(織田信敏の養子)。天保7年、父・織田信美の死去により家督を相続。天保7年、12代将軍・徳川家慶に御目見。天保7年、従五位下伊勢守に叙任。後に兵部少輔、左近将監に改める。幕末期、藩財政が悪化し、紅花の専売制や年貢の前納化を施行。文久2年、祖父・織田信浮、父・織田信美の遺志に基づき、小幡藩時代のような国主格待遇への復帰をはかる家格上昇を幕府に嘆願したが、叶わなかった。嘉永4年、幕府は出羽置賜郡内の領地4640石余を収公、村山郡内(21ヵ村で2万3153石余)に替地を与える。安政6年、江戸在留中に写真術を学んでおり、家臣(天童藩医・高梨尚賢)を撮影している。慶応3年、朝廷から上洛を命じられたが、自身ではなく、家老を名代として上洛させることを願った。慶応4年、天童藩士・津田勘解由らを上洛させた。しかし、新政府は再度織田信学本人の上洛を命じた。しかし病気を理由に上洛に応じず、嫡男・織田信敏を派遣。慶応4年、新政府から奥羽鎮撫使先導役を命じられるが、天童藩士・吉田大八を名代とした。慶応4年、隠居し、織田信敏に家督を譲る。まだ織田信敏は若年であり、隠居後も実際の運営は重臣との合議で行われたようである。慶応4年、新政府に従わなかった庄内藩が天童藩を攻撃。織田信学と家族らは仙台藩領へ逃亡した。明治3年、東京に移り、明治天皇に拝謁。明治24年、死去。