【古写真関連資料】岡倉天心と幕末明治の写真師たち

【古写真関連資料】岡倉天心と幕末明治の写真師たち

◆岡倉天心
日本の思想家、文人。本名は岡倉覚三。幼名は岡倉角蔵。横浜の本町5丁目(現・本町1丁目、横浜開港記念会館付近)に生まれる。福井藩出身の武家で、1871年に家族で東京に移転。東京美術学校(現・東京藝術大学の前身の一つ)の設立に大きく貢献し、のち日本美術院を創設した。近代日本における美術史学研究の開拓者で、英文による著作での美術史家、美術評論家としての活動、美術家の養成、ボストン美術館中国・日本美術部長といった多岐に亘る啓発活動を行い、明治以降における日本美術概念の成立に寄与した。「天心」は岡倉が詩作などの際に用いた号であるが、生前には「岡倉天心」と呼ばれることはほとんどなく、本人はアメリカでも本名の岡倉覚三で通していた。福井藩の下級藩士の父・岡倉勘右衛門は、藩命で武士の身分を捨て、福井藩が横浜に開いた商館「石川屋」(現・横浜開港記念会館)の貿易商となり、その商店の角倉で生まれたことから、覚三は当初「角蔵」と名付けられた。9歳の時、妹てふを出産した母このが産褥熱で死去する。その葬儀が行われた長延寺(現・オランダ領事館跡)に預けられ、そこで漢籍を学び、横浜居留地に宣教師ジェームス・バラが開いた英語塾で英語も学んだ。弟の岡倉由三郎は英語学者。東京開成所(のちの官立東京開成学校、現・東京大学)に入所し、政治学・理財学を学ぶ。英語が得意だったことから同校講師のアーネスト・フェノロサの助手となり、フェノロサの美術品収集を手伝った。16歳のとき、大岡忠相の末裔でもある13歳の基子と結婚する。1882年(明治15年)に専修学校(現在の専修大学)の教官となり、専修学校創立時の繁栄に貢献し学生達を鼓舞した。専修学校での活躍は、文部省専門学務局内記課に勤めていたころである。また専修学校の師弟関係で浦敬一も岡倉と出会い、その指導により生涯に決定的な影響を受けた。1890年(明治23年)から3年間、東京美術学校でおこなった講義「日本美術史」は日本の美術史学における日本美術史叙述の嚆矢とされる。1942年(昭和17年)、晩年を過ごした茨城県の五浦に天心翁肖像碑(亜細亜ハ一な里石碑)が竣工。同年11月8日には横山大観、斎藤隆三、石井鶴三などが参列して除幕式が行われた。1967年(昭和42年)には東京都台東区に岡倉天心記念公園(旧邸・日本美術院跡)が開園。1997年(平成9年)には北茨城市の五浦に日本美術院第一部を移転させて活動した岡倉天心らの業績を記念して、茨城県天心記念五浦美術館が設立された。また、ニューヨークで英語で「茶の本」を出版して100年にあたる2006年の10月9日に、岡倉が心のふるさととしてこよなく愛した福井県の大本山永平寺において“岡倉天心「茶の本」出版100周年記念座談会”が行われた。そして岡倉の生誕150年、没後100年を記念して、福井県立美術館では2013年11月1日から12月1日まで「空前絶後の岡倉天心展」を開催した。

大塚 徳三郎(おおつか とくさぶろう)

桑名藩士。 19 歳で上京し、堀内元信に写真術を学ぶ。 明治 18 年、写真師・小川一眞が東京・飯田橋に経営する玉潤社の主任となる。 日露戦争では小川一眞の依頼で写真班員として出征し、乃木希典に従軍し、多くの写真を収めた。 宮内省写真部が開設され、招かれて明治天皇の御真影を撮影。 のち小川一眞、岡倉天心らが設立した国華社に入り、写真部長として日本美術を海外に紹介。 昭和 6 年、退社。1939年死去。

工藤 利三郎(くどう りさぶろう)

別名は工藤精華。父は工藤瀧蔵。母は工藤シン。藤原南家の流れを汲む工藤滝口祐継の嫡男・工藤祐経の末裔という。安政6年頃、東京で島田篁村に漢学、陽明学、朱子学を学んだ。東京で警察に就職後、川路利良(のちに日本警察の父と呼ばれる官僚)の下で西南戦争に従軍。戦後、徳島の藍商・坂東家の東京支店に勤務。明治11年、古画鑑賞会に加わり、写真班として古書画の撮影に従事して写真術を学ぶ。 日本の古画、美術品が盗まれ、外国人に売り飛ばされている現状を知り、文化財を写真に記録しようと志す。 明治 16 年頃、帰郷し、徳島にて営業写真館を開業。明治 26 年、奈良猿沢池東畔に移住し、古美術・古建築専門の写真館「工藤精華苑」を開業。法隆寺の学僧の佐伯定胤との交流をきっかけに、古社寺保存法の施行による寺社建築や仏像等の証明写真、奈良帝室博物館の開館によるおみやげ写真等の需要が増えた。同郷の歴史学者・喜田貞吉や、岡倉天心などと親交があった。 明治 41 年、大正 15 年までかけて大型写真集『日本精華』(11巻)を小川一真のコロタイプ印刷にて出版。 日本美術の普及に貢献し、古美術写真家として評価を得た。 昭和 4 年、奈良にて死去。 没後、ガラス原版の一部が奈良市に引き取られ、現在は写真家・入江泰吉(上田貞治郎の門人)の「入江泰吉記念奈良市写真美術館」に保存され国の有形文化財に指定されている。

早崎 天真(はやさき てんしん)

中国美術学者。 明治7年、(1874)三重県津市生まれ。本名は早崎稉吉。東美校卒。橋本雅邦に師事。東京に住した。1956年死去。早崎家は、代々津藩士をつとめた。祖父・早崎勝任(1805年生)は、本姓は森田、別名は早崎士信、早崎門太夫、早崎南涯、早崎巌川と号して、はじめ津阪東陽、猪飼敬所らに学び、のち江戸の昌平坂学問所で古賀侗庵に学んでいた文人。帰藩して藩校有造館講官となった。父は津藩士・早崎勝文。早崎勝文は、早崎鉄道人と号し、藩校の講官であったが36歳で早逝したと伝わる。母は早崎慶。早崎天真は、明治19年、津藩校の教官であった土井有恪(号・黌牙、1817-1880)の凍水舎で漢学、書画を学ぶ
明治24年、小学校を卒業し、画家を志して上京。
明治24年、橋本雅邦に入門。
明治24年、岡倉天心の書生となり、中根岸の岡倉家で寄宿生活を始める。
明治25年、東京美術学校日本画科に入学。
明治26年、田中猪太郎小川一真らに写真術を学び、日本橋浜田の大西某に中国語を学ぶ。
明治26年、7月から約5ケ月間、岡倉天心は帝国博物館から中国美術調査のため清国出張を命じられ、中国各地を撮影旅行することになり、それに同行する。
明治29年、岡倉天心の異母姪・八杉貞(1869-1915)と結婚。
明治30年、同校日本画科を卒業。
明治30年、帝国博物館の委嘱で、奈良で法隆寺や新薬師寺で古画の模写を行っている。
明治32年、中国美術研究のため、再び中国(北京)に渡る。
明治33年、帰国。
明治33年、兵役に服す。また古社寺保存計画の嘱託なども行った。
明治35年、清国陜西省三原大学堂の教習に招聘され3度目の中国訪問。三原高等学堂陜西武備学堂教習、また東京帝室博物館の嘱託で陜西地方の古美術品調査にも当たった。
明治39年、帰国。
明治39年、美術品の購入などを目的に岡倉天心に同行し、ふたたび四度中国へ渡る。
明治40年、帰国。
岡倉天心没後も、ボストン美術館の美術品購入のためにたびたび訪中している。
昭和31年、東京で死去。

小川 一真(おがわ かずまさ)

武蔵国忍藩藩士・原田庄左衛門の次男として生まれる。 写真技術者・印刷技術者の小林忠治郎(旧姓・原田徳三郎)は実弟。 忍藩・培根堂で学んでいる。文久3年、武蔵国行田藩士・小川石太郎の養子となる。この頃から小川一眞と名乗っている。明治 6 年、藩主・松平忠敬の給費で東京の有馬学校に入り土木工学と英語学を修める。 この頃、写真術に興味を持ったという。 明治8年、有馬学校を卒業して帰郷。明治8年、熊谷の写真師・吉原秀雄の下で働きながら写真湿板撮影法を学ぶ。明治8年(10年とも)、上州富岡町で「小川写真館」開業。この頃、古沢福吉(富岡町初代郵便局長)と親交があり支援を受けている。明治13年、築地のバラー学校へ入学し、英語を習得。明治14年、横浜の外国人居留地で警察の通詞を勤める。明治14年、富岡町の写真館を閉じ、横浜の下岡太郎次郎下岡蓮杖の弟子で養子)に写真術を学んでいる。明治14年、第2回内国勧業博覧会に出品したが評価されなかったという。明治15年、横浜居留地の警護をしていた親類に薦められ、アメリカ軍艦に乗船し、単身渡米。旧岸和田藩主・岡部長職の知遇もあったと伝わる。最新の写真術を会得するべくアメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンのハウスティング写真館に住み込みで働く。また、欧州の最新写真技術やコロタイプ印刷などを体得している。明治17年(18年とも)帰国。明治 18 年、東京府麹町区飯田町四丁目一番地に「玉潤会(玉潤館)」を設立。カーボン印画法の材料を販売する会社も起こしている。 明治 19 年頃、中西應策が門人となっている。 明治 20 年、内務省の委嘱で皆既日食のコロナ撮影を行う。 明治 21 年、枢密院顧問官で男爵、図書頭の九鬼隆一による近畿地方の古美術文化財調査に同行。 奈良の文化財の調査撮影を行った。 のち岡倉天心らと国華社を設立。 明治 22 年、日本初のコロタイプ印刷工場「小川写真製版所」を京橋区日吉町に設立。また、コロタイプ印刷による図版入りの美術雑誌『国華』を創刊。 明治 24 年、光村利藻は、小川一真に伝授料 200 円を支払って最新のコロタイプ印刷をマスターし、光村印刷(東証 1 部上場)の基礎を築いた。 明治24年、浅草凌雲閣が開催した「百美人」コンテストを撮影。明治 26 年、シカゴ万国博覧会にあわせて開かれた万国写真公会に商議員として参加し、渡米。 網目版印刷の存在を知り、アメリカで印刷機械や器具、印刷材料一式を購入して帰国。 明治 27 年、網目版印刷業を開始。 日清戦争で東京朝日新聞の附録や博文館発行の『日清戦争実記』などの写真図版を手がけ、日露戦争で『日 露戦役写真帖』など数多くの写真帖を出版。明治35年から明治40年にかけて、渡邊銀行創立者の一族・渡邊四郎、実業家の岩崎輝弥(岩崎弥太郎の弟・岩崎弥之助の子)は、小川一真に依頼して北海道から九州まで、全国各地で多くの鉄道写真を撮影した。これらの写真は現在、さいたま市にある鉄道博物館に所蔵された。明治 36 年、板垣退助の三女、 板垣婉と結婚。二人の妻に先立たれており、3人目の妻であった。なお、 板垣婉(小川婉)は、明治5年生で、母は板垣清子。初め板垣猿という名で、のち婉(婉子)と改め、安川甚一に嫁いだが離縁し、のち小川一真に嫁いだ。明治 39 年、勲五等双光旭日章を受章。明治 43 年、写真師として初の帝室技芸員を拝命。写真撮影・印刷のほか、写真乾板の国産化を試みるなど、写真文化に大きな業績を残した。東京芝白金の前島英男(丸木利陽門下)とともに宮内省写真部を設立。大正2年、小川写真化学研究所を創設。大正4年、神奈川県平塚市で死去。従六位。