内田 總一(うちだ そういち)

二代目・内田九一。浅草内田写真館を継ぎ、で二代目・内田九一を名乗っている。 内田九一の死後、九一の妻(おうた)は、遠縁の娘・吉雄龍子を養女にした。吉雄龍子の婿となったのが總一である。 本名は生澤總一。
はじめ陸軍の軍馬医になる。
のち養母「おうた」と別れ、再び陸軍軍馬医として栃木、大坂などの勤務をした。 明治 13 年頃、内田九一の妻・内田おうたは、蛎殻町の米商人島田慶助と再婚。その際、内田九一の門人であっ た山際長太郎を伴って大坂順慶町三丁目へ出店した。 ふたたび「おうた」を引取り金沢鎮台の軍馬医として勤務。明治 14 年、北庭筑波が内田九一の名を残すため、浅草の旧写真館を買い取り「旧内田舎」と名付け再業。 明治 18 年、北庭筑波の「旧内田舎」廃業。 明治 22 年頃、山際長太郎の「内田写真館」廃業。
大坂順慶町三丁目の店を廃業した「おうた」は、金沢の鎮台で勤務していた内田總一を頼って大坂から金沢に移り住んでいる。明治 27 年、「おうた」は隠居して内田總一が家督相続。大正6 年、おうたが死去。 内田九一と「おうた」の墓は金沢内田家の菩提寺である龍淵寺(金沢市泉野町三丁目)にある。明治37 年、片桐ふじと結婚したが、ふじが明治44 年に亡くなる。大正4 年、松倉儀兵衛、松倉やをの三女、よしと再婚。子供ができなかったため、大正5 年、親族の栃木県下都賀郡冨山村の富田梅吉、タキの三男、豊咲を自分の養子とし、富山県西砺波郡石堤村の山達恭素とまつゐの二女、巴を夫婦養子にした。この夫婦養子の長男(内田豊咲)は、金沢大学医学部の医師となっている。

生年/出身:

開業年:

開業地、主要拠点:

師匠:

弟子: